審判、審査の難しさ、あやふやさ


毎日毎日「誤審」「疑惑の審判」のニュース。オリンピックの柔道やバスケのニュースである。

それを見て、ちょっと話は遠ざかるかもしれないのだが、審判とか審査について考えた。

結論から先に言っちゃうと、「完全、完璧、客観的な審判、審査」は不可能である。と言うと身も蓋もないが‥‥。

私は演劇を長らくやってる。教師でもあるので、高校演劇にも長らく関わって来た。その経験の中で、演劇コンクールの審査員も少なからずやったことがある。

演劇とか、小説とか、映像とか、写真、絵画などの審査となると、スポーツの審判よりもはるかにあやふやな(怪しい?)点が多くなる。

まず、大前提の「何を以て良い作品とするか?」自体が、驚くなかれ、基準がない!というかブレブレなのだ。

あんまり話を広げても何なので、自分の経験した高校演劇の審査に限定して書く。

まあ、経験のない方なら、「当然演技が上手なのが良い作品だろう?」とお思いになるだろう。しかし、実はそうでもない。

こと高校演劇に限ると「高校生らしさ」なる意味不明の評価を重視する審査員も結構いる。これは、プロと呼ばれる演劇人に多い。なるほど、プロの目から見たら、「上手な高校生の演技」なんて、たかがしれてる。だから、そういうのは全く評価しない。それで、プロにはできない(彼らの思う)「高校生らしい演技」、それはともすると「へたくそな演技」だったりするのだが、それを「テクニックに頼らない素朴さ」として高評価する人とががかなり存在する。また、これはプロに限らないが、「そもそも演劇は上手である必要はない」という「演劇観」をお持ちの方もいる。私自身も若干それに共感するところがあったりもするのだが。

あと、これがさらにややこしいのだが、演劇は演技力だけのものではない。脚本や演出というのがあって、これが演技以上に重要であったりする。(私なんかは脚本と演出で80%以上決まると思っている)

それで、その脚本、演出に対する評価も、ほんとに人それぞれだ。

例えば、「テーマ至上主義」。これは年配の方に多い。こういう人は「テーマ性」のないコメディやシュールギャグはゴミのように扱う。さらに、そのテーマにしても、「文学性がないからダメだ」とか、「社会的テーマを深く掘り下げている」「問題意識が高い」とかとか。あるいは私のように「テーマ」を前面に押し出した寓話みたいなのは大嫌いとか、あるいは昔ながらのプロレタリア演劇的なテーマ設定を好むとか。ほんと、人それぞれ。

さらに言えば、オリジナル作品もあれば、プロの書いた既成作品もある。新劇もあれば、エンタメもあるし、ミュージカルや、不条理劇や、古典だってある。

こういう状況でどういう風に「客観的」に審査すればいいのか? ぶっちゃけ不可能だ。

と、ここまでは審査の非客観性について書いたが、私の場合は、もっとややこしい事情があった。

というのは、私の場合、審査するだけでなく、審査される側でもあったのだ。

こういう審査の実情を知ってしまうと、ほんとに作品作りが難しい。一応コンクールに出るのだから、当然選ばれたいし、上の大会には行きたい。でも、だからと言って「審査員受け」ばかりを狙うのはどうも‥‥。というか、上記のような事情で、何が受けるのかもよくわからない。ぶっちゃけ「今回の審査員は誰なの?」ということを考えなければならなくなるのだが、それも、それぞれの大会によって審査員は変わるのだ。こうなると、もう評価は「運」としか言いようがない。

こういうことがあった。

とある地区予選で非常に高い評価を受けた作品があった。私の好みでは全然なかったが、残念ながらうちの学校はそれに負けた。まあ、審査員の好みに合ってたという感じはした。コンクール後の講評会で審査員が絶賛していたから。

それで、次の上位大会で、私は審査員になった。

ところが、その審査員の好みは全く正反対だった。大学の先生が2人いたのだが、その2人共が「文学性」命の人たちで、先の作品を「文学性がない」という理由で最下位にしようとした。そこで、何が悲しいかな、審査会議で、私が大嫌いだったその作品を私が擁護する論陣を張るはめになってしまったのだった。

などという経験を少なからずしてきたので、最近は、「評価なんて求めても仕方ない」「評価は運だ」と考えるようになった。とにかく自分が納得できる作品を作ることに専心して、いらぬ精神消耗をするべきではない、と。

しかし、誤解されては困るのだが、「演劇に良いも悪いもない」と言いたいのではない。「善し悪し」は確実に存在する。しかし、それを単一の基準では表せないということだ。

こんなことを言ってると、「観客の評価で決めるのが客観的だ」「人気投票で決めるべきだ」という意見が出て来るのだが、私はそれには全くくみしない。

例えば、演劇ではないが、小説に「本屋大賞」というのがある。全国の書店員の評価で決めるそうだ。これを「芥川賞直木賞なんかより、本屋大賞が本当の評価だ」と言う人がいたりするが、私は全くそうは思わない。どっちが正しいとか、上というのではなく、芥川賞の評価は芥川賞の評価、本屋大賞の評価は本屋大賞の評価、それだけのことだと思う。

また、資本主義社会なので「売れ行きで評価すべき」という考えも昔からある。これは、音楽や映画などに多い考え方だが、これも私は賛成できない。言いたいことはいろいろあるが、簡単に言うと、これは「イイネ」の承認欲求みたいなものだ。そして、あくまで「商品価値」としての評価である。もちろん商品価値も価値の1つではあって、別にそれを否定するものではないが、それを至上の価値とは考えない。

 

【蛇足】

文学賞で思い出した。

毎年「取る取る詐欺」で有名になってしまった村上春樹。彼は実は芥川賞を取っていない。それと、三島由紀夫も取っていない。ついでに言うと、太宰治は駆け込み訴えまでしたのにもらえなかった。まあ、この辺りは文学好きには有名な話だが。

だから、毎年、文藝春秋社の担当者は「ノーベル賞取るな、取るな」と呪詛しているような気がする。

ひょっとしたら、三島も取りそうだったので、その呪詛のせいで死んでしまったのかもしれない。

その三島は、取ってもいないのに芥川賞の選考委員をやっていた。なぜなんだろうか? 文春とディールしたのかな? 事情に詳しい人がいたら教えていただきたい。

その点、村上春樹は立派だ。たぶん、文藝春秋社に打ち合わせでも行った帰りに、丑の刻参りに出かける社員を見かけてしまったのだろう。

ああ、恐ろしい。だから、春樹はたぶん取れずに死んでしまうのだろうな。その前に呪い返しでもすればいいのに。

 

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