毎度言うが、もはや男性には期待してないので、女性の表現者限定‥‥する必要もないか。はは。
まあ、実際に、若い女性の戯曲とか作詞に「お。」と思うことが時々ある。「この子うまいんじゃない?」「センスいいんじゃない?」「才能あるんじゃない?」とか、とか。
で、最近のそういうのは、だいたいちょっとメンヘラっぽかったり、病的だったり、妄想的だったりするのが大半。
で、いくつか読んだりしてみると「あれ?どれもおんなじだなあ」と思うのも多い。つかみどころのない自己満足、マスターベーションだったり、光ってるように見える言葉選びが、わりとパターン化したメタファーだったり。要するに、「雰囲気」「思わせぶり」だけで「中身がない」みたいな、そんな感じ。
別に私は審査員でもないし、彼女たちも審査されることなんか全く期待していないのだろうから、これはホントに余計なお世話ってやつだ。
で、なんで、そういうのが気になるかというと、自分にも思いあたることがあるからなのだった。
私は高校生の頃、ちょっと詩もどきを書いていた。やたらと難しい言葉やシュールなつもりの比喩とかをちりばめた晦渋趣味みたいなので(朔太郎とか中也もどき?)、まあ、若いやつがよく書くタイプのやつだ。
それから、大学生の時、コピーライターになりたくて、今度は平易でちょっとひねりの入ったオシャレな感じの表現(糸井重里もどき?)を書くようになった。
そして、それから月日を経て、脚本をかなりたくさん書いた。
その中で、プロット、ストーリーをかっちり組み立てた作品と、瞬発力だけで書いたオムニバスの2種類のタイプを書いてたように思う。でも、どちらにしても、「お客さんにわかってほしい(笑ってほしい、泣いてほしい、感動してほしい)」という大前提はあった。
でも、たくさん書いてると、どうしてもマンネリになる。まあ、技術的にはそこそこは書けるのだが、そこそこでしかないよなあ、というのは他人はごまかせても自分はごまかせない。
それで、5、6年前にある発見をした。「わかんなくてもよくない?」って。まあ、これは微妙なとこがあって、そもそも「みんなにわかるような作品」は初めから求めてなかったし、「わかるやつだけわかればいいのだ」という傲慢さは、表現者、誰しもが持ってる宿痾ではあるように思う。ただ、その「わかるやつ」の範囲を広くとるか、狭くとるかの違いはあるけれど。
それが、もうその範囲を無茶苦茶狭くしたというか、「オレしかわからなくてもいい」みたいに開き直って、好き勝手に書いてみた。
するとどうだ。すごく楽になったし、書くのが楽しくなったのだ。で、それが快感とクセになって、そういう作風で何作か書いた。極端な話、もうストーリーなんかいらない。別に不条理劇ではないのだが、つじつま合わせを条理と呼ぶなら、不条理かもしれない。
そして、最近感じるのは、冒頭に書いたこと。これは表現なのか? カタルシスやマスターベーションなのか?
そこに境界線を引くことは無理だし、無意味だとは思う。ただ、書き手の意識として、少なくとも私は「表現」の側に身を置きたいと思っているのだ。
うーん。これは戯曲や小説とかを書いたことのある人にしかわからないと思うんだけど、例えば、散文詩風の意味ありげな、雰囲気たっぷりの、かなり厭世的な、ネガティブな、しかもちょっと難解で抽象的な言葉を並べるのって、すごく気持ちいいのだ。何か、高級でアートな世界を構築してるみたいな気分になれる。例えば、黙示録みたいな感じの神秘的な言葉や重々しい言葉を連ねてみたり、死をわざと安っぽく乱暴に扱ってみたりするのは、これはほんとに気持ちいいし、しかも、実はノリを放し飼いにして暴走させるだけだったりして、結構簡単なのだ。
でもね、これは一歩間違うと(間違わなくても?)、ほとんど中二病と変わらなくなってしまう。最近よくあるリスカのバラードや、オーバードーズのエレジーとの違いは、果たしてどこにあるのやら?
まあ、考えてみると、昔懐かしいいわゆる「純文学」なんてのは、昔から、「表現」と「中二病」の間のチキンレースみたいなところがあって、塀の上を歩いてて、センシティブな表現を歩いてたつもりが、いつの間にか自己満足の芸術家気取りに落ちてるなんてのはザラにあることで‥‥。
で、無理矢理話を最初に戻すと、若い女性表現者たちのそれが、才能なのか、メランコリックな気分に酔ってるだけなのか、と人の振り見て我が振り直せと思うに至った今日この頃なのでした。