差別を憎むリベラルという名の自覚なき差別者


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最近、おかだのYouTubeはほぼ見てなかったのだが、これは納得。

「リベラル」は「自分の差別体質に自覚のない差別者」「最も差別を嫌い、否定する差別者」というのは、その通りだと思う。

「人は皆平等であるべきだ」という理念は正しいと思う。ただ、「平等であるべき」という理念と「平等である」という現実とは根本的に異なる。

「人は平等ではない」という冷厳な現実。知的能力にしても、親の財力にしても、生育環境や血統やコネクションにしても、生まれもってかなりの格差がある。これを「上級国民」と呼ぶのはいかがかと思うが、認識としてはおおむねその通りだ。

そして、多くのリベラリストは、この現実を受け入れられない。「べき」を「である」に思い込もうとしている。それ故に必然的に無自覚の差別者となる。

「人は平等である」というフィクションを前提に考えるのだから、良い学校に入れないのも、高給の仕事に就けないのも、肥満になってしまうのも、当人の努力不足、向上心のなさ、怠惰が原因ということになり、「ダメで愚かなやつ」ということになってしまう。だから、北部の都会のリベラルは、南部の田舎のトランピストたちを「差別主義者を支持する愚かな連中」として馬鹿にし、軽蔑し、嫌悪する。これは間違いなく差別だ。しかも、当人は差別していると思っていないのだからタチが悪い。

これは、おかだ氏の言う「正しい努力をすれば、誰でも130キロのボールを投げられる」という誤った前提だ。そんなの、投げられるか! お前がたまたま能力があって投げられるからといって、一緒にするな! ‥‥ということだ。

おかだ氏の言ってる通り、マニュアルやオンラインサロンも同じ前提だよね。「成功するコツ、秘訣を教えちゃいます」なんてウソだ。あんたはできたかもしれんが、できないヤツが大多数だ。それで「何でこんなこともできないの?」と言われてもねぇ。

何なら「これをやればあなたも大谷になれる!」という本でも書きましょうか?

で‥‥だ。

だからと言って、「差別は正しい」「ダメなやつをダメと言って何が悪い」というのは‥‥やっぱりまずいと思う。

となると、先日「ユートピアのウソ」のところでも書いたけど、自分たちの理念のフェイク性、フィクション性を前提に「平等」を目指すべきではないか?

つまり、「私は差別なんかしない」ということのフェイク性、欺瞞性、うさんくささを十分に自覚しながら、「それでもより差別しない人間でありたいし、社会もそういう方向を目指すべき」と考えるのが、ベターな戦略なのではあるまいか?