本当の「エリート教育」が必要だと思う




英才教育とエリート教育

英才教育と言って、バレエとかピアノとかフィギュアスケートとか「3歳の時からやってました」というのが美談みたいによく報道されてます。特にスポーツ系の話題で多いですね。
でも、どうなのかな? まあ、そういうおうちは昔からあったと思うんですけど、「ヒト」としての成長ということを考えると、ちょっとかなり疑問です。
親が国体に出た選手だったからとか、音楽の先生だったからという理由で、物心つく前からやらせているケースが多いみたいですが、報道されてる成功例はごく一部で、うまく行かなかったケースとか、人生が歪んじゃったケースとかも相当あるんじゃないでしょうか?
本人が好きだったり、興味を持っていたらいいんですけどねぇ。
まあ、お稽古事に限らず、「お受験」とか「超進学校受験」なんてのもおんなじですよね。

綺麗事に聞こえるかもしれませんが、やっぱり「好きこそ物の上手なれ」なんだと思うんです。スポーツにしても、勉強にしても。
「勉強が好きな人なんかいるの?」と思う人もいるかもしれないけど、私は「勉強は一番贅沢な遊び」だと思ってますし、学校の生徒にもそう言ってます。(何を隠そう‥‥いや、隠すつもりはないんですが、私は高校の教師を40年ばかりやってます)「勉強なんかして何の役に立つの?」と聞かれると「役には立たんかもしれんけど、おもろいやん」と言ってますが、なかなか真意は理解されないですね。
たとえば、私は本が好きで、高校時代ぐらいからアホほど読んでましたが、「国語の勉強になるから」なんて思いは1ミリもありませんでした。逆に「本を読むと国語の成績が上がるぞ」なんて言われたら、読む気がなくなっちゃうような天邪鬼でした。
そういう「楽しさ」とか「遊び心」というのが一番大事なんだと思うんです。スポーツにしても、芸術にしても、勉学にしても。
ネットなんかに書かれてる進学関係の記事を読むと、これがほとんどないんですよね。「東大に入ったら外資系コンサルに入れて儲かる」みたいなのばっかり。こういう受験指導をしてる人って、「勉強が楽しい」と思ったことがないんでしょうね。学校の先生にもこういう人が結構いて、何か悲しくなってしまいます。
最近のいわゆる「エリート」さんに、基本的に世界観とか人生観が歪んだ人(たとえば成功至上主義とか拝金主義)が目立つのも、何か関係がありそうな気がします。
本来、「ノブレス・オブリージュ」あってこそのエリートだと思うのですが、そういう発想も哲学もありませんよね。

その意味で、日本に足りないのは「エリート教育」じゃないかな?と思ってます。「東大に入る」とか「ハーバードに入る」という受験教育は、エリート教育でも何でもありません。東大でもハーバードでもいいけど、そこに入って何を学ぶのか?という視点が全く欠如してますよね。司法試験や公認会計士やMBAに合格するのもいいけど、その前に学ぶべきことがあるんじゃないでしょうか?
本当に頭の良い人って、想像力が豊かなはずだし、その知性にふさわしい読書とか知的体験とかをしてたら、本来は「人に優しい人」になるはずなんですよ。「自分さえ成功できたらいい」なんて人は、あんまり頭が良いとは思えない。
だから、日本には「エリート教育」が存在しないと思うし、誤解を恐れずに言えば、本当の「エリート教育」こそが、この国には必要だと思うんです。

「選ばれてあることの恍惚と不安二つながら我にあり」(ヴェルレーヌ)という言葉があります。恍惚と不安の「二つ」ないとダメなんですよね。恍惚だけでは薄っぺらすぎる。選ばれることの重さを感じたり、おののいたりしないような人は、そもそも選ばれてなんかいないと思います。

 

教養主義、リベルアーツはオワコンなのか?

私が言ってる「あるべき教育」は、概して言えば、いわゆる「教養主義」ということになるのでしょう。

こういう考えは、「理想論だ」とか「机上の空論だ」とか「綺麗事だ」とか言われて、さっぱり人気がありませんが、どうなのでしょうか?

最近は「教養なんて時代遅れだ」「大学はリベラルアーツよりも即戦力になる使えるスキルを育成すべきだ」という考えが主流みたいですが、私は全くそうは思いません。逆に、今のような不確実で先の見えない時代にこそ、教養が必要だし、有効なんじゃないか?と思っているのです。

何となれば、こういう時代は、中長期的に考えると、その場その場の対処療法みたいな考えでは乗り切れないと思うんですよね。というか、対処療法的な知恵なら、それこそAIに任せればいいと思うんです。データ、情報処理能力において人間はAIに勝てるはずがありません。AI将棋を見れば、それは明白です。

人間がなすべきは、じっくりと愚直に考えて悩むこと。一見アナクロに見えるかもしれませんが、そこでしか人間はAIと勝負できないと思うのです。AIは悩みませんからね。

そして、学校は、その「考える、あるいは悩む素材」を与える場であってほしい。そして、「『答え』ばかりを求めていてはいけない。世の中は『正解』なんかないことだらけなんだから」ということ、「だからこそ学ばなければ、考えなければならないのだ」ということを教える場であってほしいのです。

しっかりと軸となるような世界観とか歴史観とか哲学がないと人類の将来は心許ない、と本当に切実に思うのです。

 

(おまけ)活字は大事だよ~

今更ですが、活字読書の必要性をひしひしと感じます。
「活字メディアなんかオワコンだ」という意見は、たぶん正しいと思います。わかりやすさ、インパクトという点では、活字は映像に全く及びもつきません。
ただ、その「オワコン」さ、「不完全さ」が重要なのです。
つまり、活字は映像に比べたら、表現力が圧倒的に劣ります。字を読んだだけではわからないから、想像しなければならず、めんどくさい。
だけど、この「想像力」こそが、キーワードだと思うのです。
例えば、「本能寺の変」を描くとします。活字だと「信長ってどういう声? どんな顔、表情? どんな風にしゃべったの?」といちいち考えなくてはなりません。それが動画だと、もう顔も声もしゃべり方も完成形だから、それしかないし、それを見るだけでいいのです。
ということで、動画情報は目や耳をきれいに通過して、思考回路にひっかからないのです。これがヤバい。これは筋トレと同じで、負荷をかけないと筋肉も脳も痩せ衰えるのは自明でしょう。
で、現代の子供なのですが、「イマドキの子は本を読まない」なんて言うつもりはありません。私だって今の子だったら、もちろん動画、YouTubeを見るでしょう。だって手っ取り早いしわかりやすいですから。人間、わざわざめんどくさいことなんかするはすがないのです。
それでも活字を読ませるなら、「本を読みなさい」なんて命令するのは愚の骨頂です。まず、周りに本があること。周囲の人間(たぶん親)が本や新聞を読んでる風景を日常とすること。それしかないと思います。
だいたい私の世代の経験で言っても「本を読め」なんて言ってる大人で、本を読んでる人間なんかいたためしがありません。親にしても、教師にしてもね。(読んでる人間は「この本はおもしろいよ」としか言わない。「本を読んだらタメになる」とかは絶対言わない。食事だって「これを食べたら栄養が身につく」なんて言われたら食欲は減退するでしょ? 当然「これ、おいしいよ」「うまいよ」ですよね? つまりはそういうことです。)