海月出づる時

【これは、劇団「かんから館」が、2005年8月に上演した演劇の台本です】

近未来の日本。政治的、歴史的に大きな転機を迎えていた。そんな中で、そんなややこしい情勢とは全く無関係に、若い女性たちが、少し時期遅れの海水浴に出かけようとしていた。クーデター? 超大型台風の直撃? そんなややこしい状況に脳天気な彼女たちも、否応なく巻き込まれていく。女の子たちは、ピンチをどうくぐり抜けるのか? フツーの女の子たちの、ちょっとフツーと違うひと夏の経験。


      〈登場人物〉

       池上 美香 (二六歳・主婦・文恵の姉)
       石野 文恵 (二三歳・フリーター)
       猪俣 さゆり (二九歳・OL・文恵の先輩)
       吉田 優子 (二六歳・フリーター・文恵の先輩)

       平成二七年八月下旬。
       東京郊外。夕方。
       古びた日本家屋の和室。
       中央に座卓があり、周囲に座布団。
       その一つに、美香がジャージ姿で座り、コップ酒
       を飲んでいる。

美香   ♪一人酒場で飲む酒は 別れ涙の味がする

       美香、酒を飲む。

美香   ♪お酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい

       美香、近くに置いてあったスーパーの袋をあさる。

美香   あぶったイカ‥‥じゃなくて‥‥イカの珍味‥‥か。ま、いっか。

       美香、珍味の袋を空けようとする。

美香   (袋を持ち上げ)イカ‥‥。ま、いいか。‥‥イカ、か。ま、いいか。‥‥アハハハハ。

       美香、一人で笑う。しつこく笑う。

美香   ‥‥おっかしいねぇ。

       沈黙。

       美香、酒をコップにつぐ。

美香   ♪沖のカモメに深酒させてヨ いとしあのコと 朝寝するダンチョネ

       美香、イカをかじりながら、酒を飲む。

美香   ♪もう 終わりだね 君が小さく見える 僕は思わず君を抱きしめたくなる

       美香、イカを食いちぎる。

美香   ‥‥なんて、思わねぇーつーの。

美香   ♪(演歌調で大声で)さよなら? さよなら? さよなら? もうすぐ死にそな暑い夏?

       美香、歌いながら、バタリと大の字に倒れる。
       しばしの間。
       風鈴の音。

       そでから声がする。

文恵の声   あれ、開いてる。‥‥おっかしいなあ。
優子の声   閉め忘れたんじゃないの?
文恵の声   そんなことないと思うんだけどなあ‥‥。
優子の声   あんたならあるよ。
さゆりの声  うん、あるある。
文恵の声   そっかなあ?
さゆりの声  ひょっとして、泥棒が入ってたりして。
文恵の声   えー。‥‥どうしよう。
さゆりの声  さあ、つべこべ言わずに入ってみよう!
文恵の声   えー、さゆりさん入ってよー。
さゆりの声  何言ってんの。あんたの家でしょ? さあ、さっさと入る!
文恵の声   (小さい声で)ただいまー。
さゆりの声  声が小さい!
文恵の声   ただいまー。

       沈黙。

優子の声   ‥‥誰もいないみたいね。
さゆりの声  泥棒さんも返事はしませんよー。
文恵の声   えー、やめてよー。
さゆりの声  さあ、入っちゃおう。お邪魔しまーす。
優子の声   お邪魔しまーす。
文恵の声   お邪魔します。
さゆりの声  あんたの家でしょ!

       女三人が部屋に入ってくる。
       美香が寝ている。

さゆり  やっぱり誰もいないじゃない。閉め忘れよ。‥‥わっ!
優子   何よ。びっくりさせないで‥‥わっ!
文恵   え、え、な、なんなんですか? ‥‥わっ!

       三人、硬直。

文恵   ‥‥お、お姉ちゃん。
さゆり・優子   え。

       美香が起きあがる。

美香   ‥‥あ、お帰り。早かったのね。
文恵   早かったじゃないでしょ! お姉ちゃん、何やってんのよ!
美香   (コップを持ち上げて)ちょっと、いただいておりましたのですわよ。
文恵   じゃなくて、どうして、ここにいるのよ?
美香   まあ、何と申しましょうか、いろいろございましたのですわよ。ホホホ。(酒を飲む)
文恵   ふざけないでよ!
美香   フミちゃん、それより、お客さんたち、いつまでそこに立たせてるつもり?
文恵   あ。‥‥すみません。何か、よくわからないんですが、とりあえず座って下さい。
優子   はあ‥‥あ、初めまして。お邪魔してます。(座る)
美香   初めまして。
さゆり  初めまして。(座る)
美香   初めまして。文恵がいつもお世話になっております。‥‥(文恵に)あんたも座りなさいよ。
文恵   え? ‥‥ああ。(座る)

       美香、イカの珍味をかじる。

文恵   だから、お姉ちゃん、どうしてここにいるわけ?
美香   紹介してよ。
文恵   え?
美香   だから、紹介。
文恵   あ、ああ‥‥。
美香   ‥‥じゃあ、私からね。わたくし、文恵の姉の池上美香と申します。(お辞儀)
文恵   ああ‥‥えっと、こっちが私の先輩で‥‥。
さゆり  猪俣さゆりです。
優子   吉田優子です。
美香   さゆりさんに、優子さんね。よろしくね。
さゆり・優子   よろしく。
美香   まあ、汚いとこですが、おくつろぎになって。‥‥ほら、フミちゃん、おコップをお持ちして。‥‥ほんと、この子、気が利かないもんですから。
文恵   ‥‥あのね。
美香   ん? ほら、おコップ。
文恵   おコップじゃないわよ。それ、わたしたちのお酒。
美香   ん? あ、そう。(イカの珍味をかじる)
文恵   それも、わたしたちのイカ
美香   ふーん。(かじる)
文恵   お姉ちゃん!
美香   ん?
文恵   いったい、何してんのよ?
美香   ああ‥‥。あのね、フミちゃん。私、今日からここに住むから。
文恵   え?
美香   よろしくね。
文恵   よろしくって‥‥それ、どういうこと?
美香   私、離婚するから。
文恵   えー?
美香   ‥‥というわけで、このたび出戻ってまいりました、池上改め、石野美香でございます。皆様、末永くお引き回しのほどを。(お辞儀をする)
さゆり・優子   は‥‥はあ。

       さゆりと優子、顔を見合わせる。

文恵   ‥‥お、お姉ちゃん。
美香   さ、そうと決まったら、祝杯をあげましょ。‥‥さあ、フミちゃん、お客様におコップよ、おコップ。
文恵   ‥‥‥。
美香   ほらほら、ボーッとしてないで! ほんと、この子は気が利かないんだから。いったい誰に似たのかしら? どうもすみませんねぇ。

       さゆりと優子、顔を見合わせる。

文恵   お姉ちゃん‥‥。
美香   ♪別れることはつらいけど 仕方がないんだ君のため 別れに星影のワルツを歌おう

       美香、イカをかじり、酒をあおる。

       暗転。

       夜。
       いつの間にか、宴会が始まっている。

美香   じゃあ、さゆりさんはお姉さんということで。
さゆり  お姉さんだなんて、そんなに違わないですよ。お姉さん。
美香   いやいや、三つも上なら立派にお姉さんですよ。お姉さん。
さゆり  そんなことはないですよ。お姉さん。
美香   お姉さん。やっぱりお姉さんは、お姉さんですよ。
さゆり  やめて下さいよ。お姉さん。
文恵   あのう‥‥。
さゆり・美香   何? フミちゃん?
文恵   え‥‥ややこしいから、名前で呼びません?
さゆり・美香   え?
優子   私も、そう思います。
さゆり  ‥‥でも、やっぱりお姉さんは、お姉さんだから‥‥。
美香   いや、やっぱり、さゆりさんがお姉さんだから‥‥。
さゆり  じゃあ、お姉さんがお姉さんということで‥‥。
美香   いえいえ、さゆりさんがお姉さんということで‥‥。
文恵   だから!
さゆり・美香   だから、何?
文恵   だから‥‥さゆりさんと美香さん。それでいいじゃない?
さゆり・美香   でも‥‥。
文恵   でももへちまもありません!
優子   私も、そう思います。
さゆり・美香   ‥‥‥。
文恵   ‥‥もう、二人ともいいトシして、つまんないことにこだわるんだから。
さゆり・美香   いいトシだから、こだわるの!
文恵   え。
さゆり・美香   あんたにはわかんないの!
文恵   ‥‥‥。

       ちょっと気まずい沈黙。
       さゆりと美香、それぞれに酒を飲む。

美香   ‥‥それで、いいのは見つかりました? さゆりさん。
さゆり  いやあ‥‥それが、なかなかねぇ。美香さん。
美香   そうでしょうねぇ。八月も後半ですしねぇ。さゆりさん。
さゆり  そうなんですよ。もう、秋物ばっかりでねぇ。美香さん。
文恵   お姉ちゃん。水着コーナーなんか、もうとっくに消滅してんのよ。
美香   ‥‥‥。誰が、お姉ちゃんだって?
文恵   あ‥‥。美香さん。
美香   ふーん。
優子   渋谷から原宿まで歩き回ったんですけどね、ほとんど置いてないんですよね。もう、足が棒になっちゃいました。
美香   あ、そう。‥‥ま、普通、こんな時期に海水浴行く人はいないわよね。
文恵   しょうがないじゃない。初盆だったんだから。
美香   だからって、別に、無理して泳ぎに行かなくったって‥‥。
文恵   私が言い出したんじゃないもん。
美香   へえ、そうなんだ。物好きな人もいるのねぇ。
さゆり  ‥‥物好きで悪うございましたねぇ。美香さん。
美香   あら、ご発案はさゆりさんでしたの? これはどうも失礼をば。
さゆり  いえいえ、どういたしまして。
優子   そういえば、109のあたりから、公園通りのあちこちに陸軍の人たちがいたでしょう?
文恵   ああ、いたいた。
優子   何やってたのかしら?
文恵   さあ?
さゆり  何かの演習とかじゃない?
優子   でも、NHKの前とか、戦車までいたじゃないですか?
さゆり  だから、戦車付きの演習とか。
美香   でも、街中で戦車なんか出さないよね、普通。
優子   でしょう? それに、私、本物の戦車なんか見たの初めてですよ。ちょっとドキドキしちゃった。
さゆり  私、けっこう見たことあるよ。横須賀に住んでたから。
美香   ていうか、渋谷で演習なんかする?
さゆり  でも、やってたんだもん。実際。
美香   ちょっと変よねぇ。
文恵   そういえば、そうかな。
優子   でしょう? 私もおかしいなって思ったんですよ。
さゆり  じゃあ‥‥だったら、何なのよ?
美香   ‥‥何だろね?

       しばしの間。

優子   あれ! じゃないですか?
さゆり  わっ。何? 急に大きな声出さないでよ。
美香   あれって?
優子   山際首相が逮捕されたでしょう?
美香   え?
文恵   うそー! マジ?
さゆり  それ、いつの話?
優子   渋谷の電光掲示板に出てましたよ。
文恵   えー、そんなのあったー?
優子   うん、スクランブル渡る時、チラッと見えたの。
美香   それで?
優子   え?
美香   それで、どういうことなの?
優子   うーん、一瞬見ただけだから。
美香   そっか。
さゆり  ‥‥何で捕まっちゃったのかな?
美香   まあ、政治家は何やってるか、わかんないもんねぇ。
さゆり  まあね。
文恵   そうなんですか? 私、けっこう好きだったんだけど。
美香   へぇー、フミちゃん、あんなおじさんが好みなの?
文恵   そういうんじゃなくって。
優子   そうそう、それで、台風が近づいてるんですよ。
さゆり  え?
美香   十三号?
優子   はい。
さゆり  えー、南の方を通るんじゃなかったの?
優子   それが、急にコースを変えたって。
美香   電光掲示板?
優子   はい。‥‥なんか直撃だそうですよ。関東地方。
さゆり  えー! 何で、早く言わないのよ!
優子   一瞬見ただけだから‥‥。
さゆり  そういうことじゃなくって、その場で言ってくれたらいいじゃん。
優子   私、あの時、信号渡りそこねたから‥‥。
さゆり  だから‥‥もう! ええっと、テレビどこよ?
文恵   居間です。
さゆり  フミちゃん、見てきて! 台風情報。
文恵   あ‥‥はい!

       文恵、居間に走る。

さゆり  もう、優子ったら、ほんと、天然なんだから。
優子   てんねん?
さゆり  えー、天然も知らないの?
優子   はい。‥‥何ですか、それ?
さゆり  そういうのが天然なの!
優子   え?
美香   あんたたち、どこに行くんだっけ?
さゆり  天橋立。‥‥の近く。
美香   京都の?
さゆり  かな? まあ、そのへん。
美香   じゃあ、大丈夫じゃん。台風。‥‥遠いし。
さゆり  でも、明日出発だし。電車が動かなかったら‥‥。
美香   ああ‥‥そっか。
さゆり  かなり大きいらしいしねぇ。
優子   九三六ヘクトパスカルです。
さゆり  え?
優子   午後一時現在。
さゆり  あんたは、そういうのだけは、やけに正確なのね。
優子   そうでもないですけど‥‥。(照れる)
美香   それって、超大型じゃない?
さゆり  そうね。
美香   やばくない?
さゆり  けっこう。
美香   そっか。
さゆり  うん。

       しばしの間。

美香   ‥‥どうして、天橋立なの? もっと近いとこにすればいいのに。
さゆり  近くに親戚があって。私の。子供の頃よく行ってたのよ。
美香   ふーん。
さゆり  美香さん、日本海って行ったことある?
美香   観光ならあるけど‥‥。
さゆり  砂浜がね、ハワイなのよ。
美香   え? ‥‥ハワイ?
さゆり  ほら、こっちの砂浜って黒いでしょ? 逗子でも湘南でも。それがね、あっちの砂浜は、真っ白なの。ワイキキビーチみたいに。
美香   へぇ、そうなんだ。
優子   私、卒業旅行でワイキキビーチ、行きましたよ。
さゆり  それで、せっかく泳ぎに行くなら、思い切って行こうかって。
美香   ふーん。
優子   ダイヤモンドヘッドも見ましたよ。みんなで写真撮りました。
さゆり  それに、時期遅れの海水浴でしょ? ちょっとオプションでもないと悔しいじゃない?
美香   オプション?
さゆり  だから、真っ白な砂浜。
美香   ああ。
優子   そうそう、そこでみんなで写真撮りましょ?
さゆり  ああ、そうね。
優子   それで、ハワイに行って来たって、会社の人に言いましょ。
さゆり  そんなの、すぐバレるわよ。
優子   でも、田中さんとか、岩崎さんならバレないんじゃないですか?
さゆり  ああ‥‥かもね。
優子   でしょう?

       文恵が戻ってくる。

文恵   大変! 大変!
さゆり  どうだった?
文恵   緊急事態何とか法が、東京、埼玉、神奈川、千葉に発令されたって。
さゆり  えー、そんなに大きな台風なの?
文恵   いや、どうも台風じゃないみたくって。
さゆり  何、それ?
文恵   山際首相の他にも、何人も大臣が逮捕されたんだって。
さゆり  えー?
美香   それ、どういうこと?
文恵   それが、よくわかんないの。
美香   よくわかんないって、どういうことよ?
文恵   逮捕されたのは確かみたいなんだけど、詳しくは言わないのよ。
美香   何よ、それ?
文恵   それで、国防大臣が、臨時の総理大臣代行になったって。
美香   えー。
優子   ああ、それで、渋谷に陸軍の人たちがいたのね。
さゆり  それで?
文恵   それでって‥‥後は、台風情報になっちゃったから。
さゆり  台風はどうなのよ?
文恵   やっぱり関東地方を直撃するみたいです。二十一世紀最大級の台風だって。
さゆり  えー! それで、何時頃上陸するわけ?
文恵   明日の昼過ぎぐらいって。
さゆり  やばいなあ‥‥。新幹線動くかなあ?
文恵   それが‥‥。
さゆり  え? 何?
文恵   新幹線、もう動いてないんです。
さゆり  えー! どうして?
文恵   だから、その緊急事態なんとか法で止められちゃったんだそうです。
さゆり・美香・優子   えー!
さゆり  そんな‥‥。
優子   さゆりさん!
さゆり  え?
優子   ワイキキビーチはどうなるんですか?
さゆり  そんなの‥‥わかんないよ!

       さゆり、酒をあおる。
       沈黙。

       暗転。

       夜。
       やけになって、宴会を続けている。

さゆり  あーあ、こんなことなら、天橋立に直行しとくんだったなあ‥‥。
文恵   ‥‥だって。
さゆり  え?
文恵   ウチで徹夜でパーティーやろうって言い出したのは、さゆりさんでしょ?
さゆり  ‥‥そりゃ‥‥そうだけどさ。
優子   そうそう、徹夜で騒ごうぜ! 次の日は、電車で寝ればいいんだからって。
さゆり  ‥‥まさか‥‥こんなことになるなんて思わないじゃん。

       さゆり、酒を飲む。

美香   何で、パーティーなんかしようと思ったわけ?
さゆり  ‥‥フミちゃんが一軒家で一人暮らしだって聞いてたから‥‥そんなの、学生時代以来したことなかったし。
美香   そんなのって、パーティー
さゆり  それもあるけど‥‥なーんか、無意味な馬鹿騒ぎしたかったのよねー。
美香   そんなの、旅館でもできるじゃない?
さゆり  そうかもしれないけど、民宿だしさ、朝までってわけにもいかないでしょ?
美香   ふーん、そっか。
さゆり  それに、私も、もう二十九だし‥‥。
優子   えー? それが何か関係があるんですか?
さゆり  あんたには、わかんないわよ。
優子   えー。そんなこと言わないで、言って下さいよー。
さゆり  ‥‥二十代最後の馬鹿騒ぎ。
優子   え?
さゆり  三十にもなって、もうそんなことできないでしょ?
優子   えー、そーですかー?
さゆり  だから、あんたにはわかんないって。
美香   ‥‥青春の思い出?
さゆり  まあ‥‥ひなびた青春だけどね。
文恵   私、わかります。十代最後の時、「ああ、これで青春も終わるのか」って思いました。
さゆり  ‥‥あんた、殺されたいわけ?
文恵   え? あ‥‥すみません。

       さゆり、酒を飲む。

さゆり  ‥‥ほら、昔、「負け犬の遠吠え」ってあったでしょ?
優子   ああ、ありましたね。三十代、未婚、子無しは負け犬だって。
さゆり  ‥‥‥。それでさあ、私、あと半年たったら、完全にその「負け犬」組なのよね。‥‥そんなの、どうでもいいって思ってたんだけどさ‥‥いざ、そのトシになるとね、けっこうズシッて来るっていうか。
優子   そんなの気にすることありませんよ。そんなこと言ったら、世の中負け犬だらけですよ。‥‥ほら、堤さんも、石田さんも、それから‥‥。
さゆり  あんたは若くていいわね。
優子   え? そうですかあ? もう二十六ですよ。
美香   そうよ、そんなの気にすることないわよ。今じゃ三十代の半分は未婚なんだから。
さゆり  でも、美香さんは結婚してるじゃない?
美香   そうだけど‥‥子供いないし。‥‥それに、バツイチ目前だし。
さゆり  でも、まだ二十六でしょ?
優子   そうなんですよね。美香さん、おない歳なんてウソみたい。‥‥私も結婚しようかなあ?
さゆり  相手いるの?
優子   いないけど‥‥。
さゆり  ふーん。

       さゆり、酒を飲む。

優子   そうそう、美香さん、どうして離婚するんですか? もったいないですよ。
美香   え?
さゆり  あんた、聞きにくいことをスバッと言うわね。
優子   え? そうですか?
文恵   そうよ。お姉ちゃん、何があったのよ?
美香   何がって‥‥。まあ、いろいろね。
文恵   浩二さんが、お父さんの初盆に来なかったから?
美香   それだけじゃないけど‥‥。
文恵   仕事が忙しかったんだから、仕方ないじゃない?
美香   あれだけじゃないのよ。あの人はいつもそうなの。‥‥仕事ばっかり。
さゆり  ねえ、ご主人の仕事って、何なの?
美香   公務員。
文恵   外務省に勤めてるんです。
さゆり  え? 外交官なの? すごいじゃない?
美香   そんないいのじゃないのよ。下っ端の普通のお役人。
さゆり  ふーん。でも、国家公務員でしょ?
美香   そうだけど‥‥。
さゆり  いいじゃない。安定してて。
美香   まあ、外からはそう見えるかもしれないけどね‥‥。
さゆり  違うの?
美香   そりゃ、安定はしてるかもしれないけど‥‥。忙しさが半端じゃないのよ。‥‥予算の時とか、年度末とか、国会の時とか、徹夜はフツーだし。
さゆり  へえ、公務員ってヒマなのかと思った。
優子   そうそう、うちの近所の市役所とか、五時過ぎには誰もいませんよ。
美香   私も、結婚する前は、そんなのかと思ってたのよ。でも、同じ公務員でも大違い。
文恵   中央官庁ですからね。
美香   それで、こないだのお盆だって、前々から「お父さんの初盆だから」って言ってたのよ。それで「わかってる」って言ってたのに。
文恵   国会が延長になっちゃって。
さゆり  でも、国会だって、お盆ぐらい休むでしょ?
美香   普通はそうなのよ。でも、今回のは大もめにもめてるからって。
さゆり  何もめてたっけ?
優子   あれ!じゃないですか?
さゆり  え、何よ?
優子   国連の安保理事会で、アメリカにつくか、中国につくかっていうやつ。
美香   そう、それなのよ。
さゆり  あんた、妙なことに詳しいわね。
優子   いやあ、ニュース見るのが趣味なんですよ。
さゆり  へぇ、変わった趣味ねぇ。
優子   そうですかあ?
さゆり  それで、何もめてんのよ?
優子   なんか、外務省がアメリカ派で、国防省が中国派なんですよね。
さゆり  へぇ、それで?
優子   それでって‥‥それだけです。
さゆり  何よ、それ?
優子   だって、ニュースでそう言ってたから。
さゆり  ‥‥あんた、頼りになりそうでならないわねぇ。
優子   え、そうですかあ?
美香   ほら、最近、中国が急速に力を付けてきたでしょう? GDPだって、日本としのぎを削ってるし。それで、これまでのアメリカ一辺倒の外交は見直すべきだ、っていうのが、国防省の主張なのよ。
優子   そうそう、そうなんですよ。
さゆり  それで、外務省とケンカしてるわけ?
美香   外務省と国防省のケンカっていうより、実際はもっと複雑なんだけどね、まあ、おおざっぱに言えばそんな感じかな。
優子   ああ、そっか! わかった!
さゆり  わっ、何よ? 勝手に話に割り込まないでよ。
優子   だから、それで、山際首相とかみんな逮捕されたんですよ。
さゆり  え?
優子   だから、国防省が、山際首相が邪魔になったから逮捕したんですよ。
さゆり  えー? ‥‥ねぇ、首相って、どっち側だったの?
美香   まあ、どちらかというと、外務省側かな?
さゆり  でもねぇ、一国の首相を、そんなことできる?
文恵   そうよ。国防省は警察じゃないんだし。
優子   えー、そっかなあ‥‥?
さゆり  そうそう、問題はそういうことじゃなくって、美香さんの離婚の話よ。
文恵   そうよ、そうよ。
優子   ああ‥‥そうでしたね。
さゆり  で‥‥それで、どうなのよ?
文恵・優子   それで?
美香   あ‥‥あははは‥‥そんなに、勢い込んで聞かれてもねぇ。‥‥まあ、よくあるつまんない話よ。
さゆり・文恵・優子   つまんない話って?
美香   え‥‥まあ‥‥その‥‥。あれよ、仕事を取るか、私を取るかって‥‥。
さゆり  言ったの?
美香   ‥‥いや、まだだけど。
文恵   なーんだ。
さゆり  だったら、離婚って言っても、まだ仮定の話なんだ。
美香   いや、かなり決定的。決意は固いの。
優子   でも、仕事に打ち込む男って、かっこいいと思いますよ。プータローよりいいと思うけどなあ‥‥。
美香   外から見てると、そう思えるかもしれないけどね‥‥。それに、打ち込むって言ったって、程度の問題があるわよ。
文恵   ‥‥そんなにひどいの?
美香   ひどいなんてもんじゃないわよ。この一週間、帰って来たのは一回だけ。それも、洗濯物だけ置いて、すぐ出てったのよ。
文恵   へぇー。それはかなりね。
美香   それで、一日、一、二回はメールぐらいくれてたんだけど、ここ三日ぐらいは、それもないのよ。
文恵   音信不通?
美香   そう。‥‥こんなの夫婦って言えると思う?
さゆり  美香さんから、メールとか電話とかしないの?
美香   もちろんしてるわよ。でも電話は出ないし、メールは帰って来ないし。
さゆり  そっか。
文恵   かなり重症ね。
美香   でしょ?
優子   やっぱり、あれじゃないですか? 山際首相が捕まって、役所とかひっくり返ってるんですよ、きっと。
さゆり  だから、首相の話はいいのよ。
文恵   いくらひっくり返ってたって、メールぐらいできるでしょ?
優子   そっかなあ‥‥?
美香   要するに気持ちの問題よね。忙しいとか忙しくないとかより、する気があるかどうかってこと。
さゆり  そうね。
文恵   確かに。
優子   そっかなあ‥‥?
さゆり  ‥‥私が言うのも何だけどさ。
美香   え、何?
さゆり  子供がいたら、また違ったかもね。
美香   うーん、どうだろ? あんまり変わんないんじゃない?
さゆり  そうかな?
美香   私一人がひたすら子育てに苦労して、ダンナは仕事一辺倒だったら、よけい悲惨じゃない?
さゆり  なるほど。そういうのもありか。
美香   そうよ。‥‥それに、離婚だって、もっとややこしくなるだろうし‥‥。
さゆり  ああ、確かにそうよねぇ‥‥。

       携帯電話が鳴る。

さゆり  あ、私のだ。‥‥ちょっとごめんなさい。

       さゆり、携帯電話を取り出す。

さゆり  はい、猪俣ですけど‥‥。はい‥‥あ、どうも、どうも。いや、こちらから連絡しようと思ってたんですけど‥‥はい‥‥はい‥‥いや、そうなんですよ。新幹線も止まってるみたいで。困ってるんです。‥‥はい‥‥はい‥‥え?どういうことですか?‥‥はあ‥‥はあ‥‥はあ‥‥へぇ、そうなんですか?‥‥はい‥‥いや、こっちでも、よくわかんないんですよ。‥‥はい、そうなんです。‥‥はあ‥‥はあ‥‥そうですねぇ。ほんと、どうなってるんでしょうねぇ?‥‥はあ‥‥はあ‥‥そうですね。そういうことになりそうですね。‥‥はい、どうもご迷惑をおかけします。‥‥いえいえ、そんなことは‥‥はい‥‥はい‥‥そうですね。何かわかりましたら、すぐに連絡しますので‥‥はい‥‥はい‥‥そうですか。それでは失礼いたします。ご丁寧に、ありがとうございました。ごめんくださいませ。

       さゆり、携帯電話を切る。

文恵   民宿からですか?
さゆり  うん、そう。
美香   天橋立? ‥‥それで、どうだって?
さゆり  まあ、とりあえず、明日はキャンセルになりそうなんだけど‥‥。
文恵   まあ、そうするしかないですよねぇ‥‥。
さゆり  それがね、変なのよ。
文恵   変って?
さゆり  なんか、あっちの方では、東京の情報が全然入って来ないらしいのよ。‥‥新幹線が止まってるとか、そういう断片的なことはわかってるんだけど、何が起こって、どうなってるかって、全然わかんないんだって。
文恵   へぇ。
さゆり  だから、どうなってるのか教えてくれって。
美香   そんなの、こっちだって、わかってないじゃん。
さゆり  そうなのよねぇ。‥‥いったいどうなってんのかなあ?
優子   きっと、あれですよ。陸軍がNHKを占領してるんですよ。
さゆり  何よ。突飛なこと言わないでよ。
優子   だって、NHKに戦車がいたし‥‥。
美香   そんなの、NHKの他にも放送局はあるんだし‥‥それに台風情報はやってるじゃない?
優子   それはそうだけど‥‥。
さゆり  そうよ。それじゃまるで革命かクーデターじゃん。二十一世紀の日本で、そんなのあると思う?
優子   だって‥‥でも、そうじゃないとおかしいじゃないですか。
さゆり  優子はやっぱり天然なのよねぇ。発想が素朴っていうか単純すぎるのよ。テレビドラマや映画じゃないんだから。
優子   だって‥‥じゃあ、何なんですか?
さゆり  それがわかんないから困ってるんじゃない。‥‥フミちゃん、悪いけど、も一回テレビ見て来てよ。
文恵   あ、はい。
美香   それじゃ、フミだけじゃなくってさ、みんなで見ようよ。
さゆり  ああ、そうね。‥‥だったら優子も納得できるだろうしね。
優子   はい‥‥。
さゆり  じゃあ、行きましょ。
文恵   居間は散らかってますよ。
さゆり  平気、平気。テレビ見るだけだから。

       全員、立ち上がる。

文恵   じゃあ、どうぞ。
さゆり  おっじゃましまーす。
美香   お邪魔は変でしょ?
さゆり  はは‥‥そっか。

       全員、居間に去る。

       暗転。

       夜中。
       美香と文恵以外はごろ寝している。
       二人はお茶を飲んでいる。

文恵   風が出てきたんじゃない?
美香   ‥‥そうかな?
文恵   うん。
美香   そっか。
文恵   そろそろ暴風圏かな?
美香   どうだろ? まだじゃない? かなりスピードが遅いみたいだから。
文恵   ああ‥‥そうだね。
美香   うん。

       しばしの間。

文恵   ‥‥みんな寝ちゃったね。
美香   ああ。
文恵   徹夜で騒ごうって言ってたのに。
美香   明日、キャンセルが決まっちゃったから、拍子抜けしたんじゃない?
文恵   ああ‥‥そうかもね。

       しばしの間。

文恵   ‥‥でも、確かに変だよね。
美香   え?
文恵   どこのチャンネル回しても、台風情報とバラエティと映画ばっかでさ。‥‥政治のニュースはやってないし。
美香   フミ、ニュースなんか見たっけ?
文恵   え?
美香   ふだん全然見てないでしょ? おかしくない?
文恵   え‥‥そうだけど‥‥今日なんかはさ、ちょっと気になるじゃない?
美香   ‥‥まあね。
文恵   ‥‥でしょ?
美香   まあ、朝になったら何かわかるんじゃない? ワイドショーもあるし。
文恵   ‥‥そうね。
美香   うん。

       二人、茶を飲む。

美香   ‥‥もう八ヶ月か。
文恵   え?
美香   十二月八日だから、八ヶ月と半月だよね。‥‥早いねぇ。
文恵   ああ‥‥そうだね。早いね。
美香   でもさ、私、離れて住んでるせいかもしれないけどさ、正直言って、まだ、もう一つ実感がわかないのよね。
文恵   私だって、そうよ。こないだ初盆やって、ああ、もうそんなになるのかって思った。
美香   でも、フミは、父子家庭だったんだから、ガラッと生活変わったでしょ?
文恵   それはそうだけど‥‥。そういうのと、お父さんの存在感みたいなのは、ちょっと違うのよ。
美香   どういうこと?
文恵   ほら‥‥例えば、十二時過ぎて帰って来たりすると、知らず知らずこっそりドア開けたりするわけ。それで、ああ、もう怒る人はいないんだって、そんなのがしょっちゅう。
美香   ああ‥‥なるほどね。
文恵   洗濯物とか洗い物とか、放り出しといても別にかまわないんだけど、そそくさと片づけたりしてさ。
美香   はは‥‥そうなんだ。
文恵   そう。‥‥そういうのは、なかなか抜けないのよねぇ。どっかでお父さんが見てるみたいってゆーか、ちゃんとしないと、お父さんを忘れてるみたいで悪いって感じもするし。
美香   やっぱり一緒に住んでた分だけ、そういうのが強いのかもね。
文恵   ‥‥そうかもしんない。
美香   なるほどねぇ。‥‥やっぱり、お母さんの時とは全然違うよねぇ。
文恵   うん。全然違う。
美香   まあ、フミは、お母さんのこと恨んでたからさ、余計にそうかもしれないね。
文恵   恨んでたってことはないけど‥‥。でも、捨てられたって感じはあったな。お父さんは、突然消えちゃったって感じ。
美香   今だから言うけどさ、お葬式の時、お母さんを呼ぶのをフミが反対するんじゃないかって思ってたんだ。
文恵   えー、そんなこと思ってたの?
美香   うん。
文恵   それはあんまりだよ。もう子供じゃないんだからさあ。
美香   ごめん。
文恵   もう!

       二人、見つめ合って、思わず笑ってしまう。

美香   ‥‥あのさ。
文恵   何?
美香   ‥‥親って何なんだろうね?
文恵   何なんだろう?
美香   よくわかんないね。
文恵   わかんない。
美香   ‥‥‥。
文恵   ‥‥‥。

       二人、黙って茶を飲む。

文恵   ‥‥あのさ。
美香   何?
文恵   そんだけお母さんのことを気にかけてるお姉ちゃんがさ、離婚するって言うんだから、よっぽどなんだろうね。
美香   ‥‥いや、別に。
文恵   え?
美香   別に、大したことじゃないのよ。
文恵   え?
美香   何で結婚なんかするのかなあって‥‥。
文恵   え?
美香   何で結婚したのか、じゃなくって、何でするのかって。
文恵   それ‥‥どういうこと?
美香   白紙に戻して考えてみたのよ。
文恵   ‥‥‥。
美香   すると、結婚した理由らしいのはいくつかあるんだけど、もし、これから結婚するとしたらって、その理由が見つからないの。
文恵   ‥‥‥。
美香   私って、わがままなのかもしれない。
文恵   それ‥‥どういう意味?
美香   二人で生きていけるほど、まだ、一人で生きてなかったのかなあってね。
文恵   ‥‥よく、わかんない。
美香   わかんなくていいのよ。‥‥あなたは、あなたでしっかり生きればいいんだから。
文恵   ‥‥‥。
美香   そうしたら、わかるかもしれないし‥‥わかんないかもしれないけど。
文恵   ‥‥ふーん。
美香   この頃ね‥‥。
文恵   うん。
美香   お母さんの気持ち、わかるはずないんだけど、わかるような気がしてね。
文恵   ‥‥どういうこと?
美香   あの人も、やっぱり女なんだなあって。
文恵   え?
美香   ‥‥あのさ。
文恵   何?
美香   女って何なんだろうね?
文恵   え?
美香   何だと思う?
文恵   そんな‥‥急に聞かれても‥‥わかんないよ。
美香   私も、わかんない。
文恵   え。
美香   でも、女に生まれてよかったって思ってるのよ。
文恵   ‥‥‥。
美香   フミはどう?
文恵   え‥‥。よかったかな‥‥?
美香   そう‥‥よかった。
文恵   ‥‥‥。

       美香、茶を飲む。

文恵   ‥‥お姉ちゃん。
美香   何?
文恵   お姉ちゃん、どうしたのよ?
美香   え?
文恵   何か変よ。
美香   別に‥‥変じゃないよ。
文恵   そう?
美香   うん。
文恵   そっかなあ‥‥?

       しばしの間。

美香   あれ‥‥風がやんだわね。
文恵   え? ‥‥そう?
美香   そうよ。
文恵   ‥‥かな?
美香   うん。

       しばしの間。

美香   ‥‥嵐の前の静けさ、か。
文恵   え?
美香   フミちゃん。
文恵   何?
美香   ひょっとしたら、優子さんの言う通りかもしれないよ。
文恵   え、何が?
美香   革命。
文恵   え?
美香   だから、革命とかクーデターが起こってるって‥‥。
文恵   それ‥‥マジ?
美香   うん。
文恵   どうして?
美香   ‥‥女の直感。
文恵   何よ、それ!
美香   私の直感、案外当たるのよ。
文恵   そんな‥‥物騒なこと言わないでよ。
美香   ‥‥うちのダンナも‥‥もうダメかもしれないわね。
文恵   え?
美香   殺されてるかもしれない。
文恵   そんな‥‥どうしてそんなこと考えるのよ?
美香   だって、外務省は、国防省の敵だからさ。
文恵   でも‥‥。
美香   ここ三日、メールも電話もないって言ったでしょう?
文恵   だからって‥‥。
美香   そうすると、今度はアメリカが黙っていないわね。
文恵   え?
美香   だって、国防省は、反アメリカだからさ。
文恵   ‥‥‥。
美香   戦争になるかもね‥‥。
文恵   ‥‥‥。
美香   だから、アメリカ軍が攻めて来るのよ。
文恵   そんな‥‥。
美香   そしたら、フミ、どうする?
文恵   どうするって‥‥。

       しばしの間。

美香   ‥‥冗談よ。
文恵   え?
美香   全部、冗談。‥‥革命もクーデターも。
文恵   え?
美香   真夏の夜の‥‥怪談。
文恵   え‥‥ウソなの?
美香   うん。
文恵   なーによ、それ!
美香   ごめーん。‥‥でも、夏の夜は、やっぱり恐い話が似合うじゃない?
文恵   もう! びっくりするじゃない!
美香   あははは‥‥。
文恵   ひどーい!
美香   あははは‥‥。

       優子が、目を覚ます。

優子   あれ? ‥‥どうしたんですか?
美香   あ、起こしちゃった? ごめん。
優子   はあ‥‥。何なんですか?
美香   だから‥‥優子さんの真夏の夜の夢
優子   へ?
美香   いいから、寝てて。
優子   はあ? ‥‥はい。

       優子が寝る。

美香   ‥‥さてと。‥‥私たちも寝ようか?
文恵   ‥‥うん。
美香   それとも、もう一回、テレビ見る?
文恵   もういい。‥‥どうせ、台風情報とテレビショッピングだから。
美香   そうだね。
文恵   うん。
美香   じゃあ、早く寝て、明日に備えて、体調を整えときましょう。
文恵   え‥‥明日、何かあるの?
美香   銃後の護りは、女の役目だから。
文恵   え?
美香   じゃ、消すわよ。
文恵   え?

       美香、電灯のひもを引く。

美香   おやすみ。

       暗転。

       翌日。
       風の音。雨の音。
       文恵以外の全員が、座卓の周りに座っている。

さゆり  ‥‥かなり、強くなってきたね。
優子   いよいよですかね?
さゆり  もう、暴風圏には入ってるんじゃない?
美香   そうね。
さゆり  相当きつそうね。
優子   九四一ヘクトパスカル
美香   伊勢湾台風ぐらいかな?
さゆり  そんな昔のたとえ出されてもねぇ‥‥。美香さん、知ってるの?
美香   知るわけないでしょ。
さゆり  だったら、意味ないじゃん。
美香   歴史よ、歴史。歴史の教訓よ。
さゆり  私、あいにく歴史は苦手なのよ。日本史も、世界史も。
優子   私、歴史は得意ですよ。
さゆり  ふーん。それはよかったわね。
優子   そうですかあ?(照れる)

       文恵が、入ってくる。

さゆり  あ、フミちゃん。‥‥どうだった?
文恵   東京は、午前十一時に暴風圏に入ったそうです。
さゆり  ああ‥‥やっぱりね。
文恵   伊勢湾台風並みの勢力だって。
美香   そう‥‥やっぱりね。
さゆり  ‥‥この家、かなり古そうだけど、大丈夫?
文恵   ‥‥さあ?
美香   平気なんじゃない? 私が生まれた頃だから、まだ三十年ぐらいだし‥‥。
さゆり  それにしては‥‥かなりボロいわね。
美香   何よ。人の家の悪口言わないでよね。
さゆり  それはそれは、悪うございましたわね。
美香   ‥‥‥。
さゆり  ‥‥それで、相変わらずなの? テレビ。
文恵   え?
さゆり  だから、普通のニュースはやってないの?
文恵   ああ‥‥交通事故とか、芸能ニュースはやってますけど‥‥。
さゆり  じゃなくって‥‥総理大臣とか、陸軍とかは?
文恵   いや、全然。
さゆり  そっか。
文恵   はい。
さゆり  ふーん。‥‥やっぱ、優子の言う通りかもしんないわね。
優子   え?
さゆり  クーデターか革命かしんないけど、きっとそういうのが起きてんのよ。
優子   え‥‥さゆりさんも、やっぱりそう思います?
さゆり  そうそう、それで首相も大臣もみんな殺されてんのよ。
優子   いや‥‥そこまでは、どうか‥‥。
さゆり  ひょっとしたら、天皇陛下もあぶないかもね。
優子   いや、それは‥‥。
さゆり  きっとそうよ。みんな殺されてんのよ。‥‥それで、今度は台風が直撃して、東京がメチャクチャになるの。東京だけじゃないわ、天橋立も日本中がメチャクチャになるのよ。
優子   だから‥‥。
さゆり  それで、どこかの国から核ミサイルが飛んできて、バーン、ドカーンって爆発して、みんな死んじゃうのよ。
優子   それは無茶苦茶ですよ。
さゆり  無茶苦茶じゃないわよ。それから、火星人とかインベーダーとかどんどんやって来て、地球が支配されるの。それで、みんな火星人のペットになっちゃうの。
優子   ‥‥‥。
さゆり  わかる? 火星人のペットよ?
全員   ‥‥‥。
さゆり  素敵だと思わない? あははは‥‥。そうよ、優子の言う通りよ!
優子   私、そんなこと言ってません!
美香   ‥‥お酒飲んでるの?
文恵   ‥‥うん。
美香   ‥‥朝から?
文恵   ‥‥たぶん。
さゆり  タコみたいな火星人が、天橋立で海水浴するのよ。だって、タコだから。あははは‥‥
全員   ‥‥‥。
さゆり  ‥‥ちくしょう。‥‥何の恨みがあんのよ!
全員   ?
さゆり  ‥‥お盆もなしで、デートもなしで、せっせせっせと働いてさ‥‥それでやっとつかんだ夏休みなのよ。‥‥それなのに、どうして台風なのよ? 陸軍なのよ?
全員   ‥‥‥。
さゆり  何なのよ? 誰か答えてよ!
優子   ‥‥でも‥‥さゆりさん、夏休みがあるだけ、まだいいじゃないですか?
文恵   ‥‥優子さん。(小声で)
さゆり  え?
優子   だから、さゆりさんは正社員だから、代休がもらえるけど、私たちアルバイトは、元々有休なんてないんですから‥‥。
美香   ‥‥優子さん!(小声で)
さゆり  え‥‥何? ‥‥するってぇと何かい? 私は恵まれてるって言うの?
優子   ‥‥はい‥‥私たちよりは。
さゆり  あ‥‥そう‥‥。
全員   ‥‥‥。(緊張)
さゆり  あんたはえらい! ズバリ、その通りよ!
全員   ?
さゆり  確かに、正社員とアルバイトの待遇の差はひどすぎるわよね。‥‥私、前々から、そーだなーって思ってたのよ。
全員   ‥‥‥。
さゆり  それなのに、こんな私に付き合ってくれて、休みを取ってくれたあんたたちには、本当に感謝してるわ。‥‥ありがとう、優子ちゃん! ありがとう、フミちゃん!(握手する)みんな、本当にありがとう! 猪俣さゆり二十九歳。本当に幸せ者です!
全員   ‥‥‥。(顔を見合わせる)
さゆり  ‥‥だからこそ、だからこそであります。そんな皆さんのご厚意に報いるためにも、天橋立に行かねばならんのであります。たとえ雨が降ろうがヤリが降ろうが、天橋立に‥‥。
文恵   ‥‥さゆりさん、もういいですから。
さゆり  いや! ここで引き下がるわけにはいきません! だって‥‥だって‥‥。
全員   ?
さゆり  ‥‥だって、二十代最後の夏休みなのよ! ‥‥わかる?来年じゃもうダメなのよ!(泣く)
全員   ‥‥‥。
さゆり  ‥‥わかんないでしょうね。‥‥平成生まれのあんたたちには‥‥この私の切ない気持ちが‥‥。♪どうせ?、あたしは、昭和の女?。

       さゆり、バタリと倒れる。

全員   ‥‥‥。
優子   ‥‥これって。
美香・文恵   え?
優子   どこかで一度見たような風景ですね。
文恵   ‥‥‥。(含み笑い)
美香   ‥‥それ、どういう意味よ?
優子   いや‥‥別に。
美香   ‥‥‥。

       全員、バラバラと座る。
       さゆりはひっくり返っている。

美香   ‥‥ま、台風は気の毒だったけど、
文恵・優子   ‥‥‥。
美香   やっぱり、お盆過ぎの海水浴ってのはねぇ‥‥。
文恵   だから、初盆だから仕方なかったって‥‥。
美香   だったら、プールだっていいじゃない?
文恵   だから、さゆりさんがどうしても天橋立に行きたいって。それで、この時期にしか代休が取れないのよ。
美香   ‥‥ま、いいんだけどね。
文恵   ‥‥何よ? なんか含みのある言い方ね。
美香   え‥‥知らないの?
文恵   え、何を?
美香   そっかあ、知らないのか‥‥。
文恵   え、何よ? 教えてよ。
美香   そう? じゃ、教えてあげる。だから‥‥お盆過ぎの海にはね‥‥。
文恵   ‥‥うん。
美香   ‥‥出るのよ。
文恵   え‥‥何?
美香   出るって言ったら、決まってるじゃない?
文恵   え‥‥。
美香   だから‥‥。
優子   クラゲですよね。
美香・文恵   は?
優子   アンドンクラゲ。デンキクラゲとも言いますけど。
美香・文恵   は?
優子   だから、夏の終わりには、アンドンクラゲがいっぱい出るんです。
美香・文恵   はあ?
優子   あれ? 知らないんですかあ? アンドンクラゲ。
美香・文恵   はあ‥‥。
優子   よく、デンキクラゲって言いますけど、ホントは電気は出さないんですよ。毒でビリビリするのが電気に似てるからデンキクラゲって言うんです。
美香・文恵   ‥‥‥。
優子   でね、本当はアンドンクラゲって言うんです。どうしてかって言うと、形がアンドンに似てるんですよね。‥‥あの、アンドンってわかります?
美香・文恵   ‥‥‥。
優子   えー! アンドン知らないんですかあ?
さゆり  アンドンぐらい知ってるわよ!

       さゆり、起きあがる。

さゆり  アンドンって、あれでしょ? ろくろっ首が、夜中にニョロニョロって首を伸ばして、油をペロペロなめるやつ。
優子   は、はあ‥‥。
さゆり  小さい頃、お化け屋敷でよく見たわよ。私、お化け屋敷大好きだったから。‥‥ほら、いろいろいたじゃない? ろくろっ首とかお岩さん、番長皿屋敷に雪女、それからイタチとか猫又とか‥‥。♪親の因果が子に報い?、かわいそうなのはこの子でござい?って。
文恵   ‥‥あの、さゆりさん、ホントはいくつなんですか?
さゆり  うるさいわね! レディにトシ聞くもんじゃないわよ! 二十九よ、二十九。何遍言わせるの?
文恵   ‥‥ホントですか?
さゆり  何よ! 私がサバ読んでるって言うの?
文恵   いえ‥‥でも、やけに詳しいから。
優子   そうですよ! オバケって言ったら、オバケクラゲって知ってます?
全員   はあ?
優子   ほら、ニュースでよくやってるじゃありませんか? 魚を捕る網にクラゲがいっぱいかかったって話。
美香   ‥‥ああ、そういえば、そんな話、聞いたことある。
優子   でしょう? あれね、正式な名前はエチゼンクラゲって言うんですよ。
さゆり  へぇ、あんた、詳しいわね。
文恵   ほんと。優子さん、クラゲ博士ですね。
優子   え、そうですかあ? いやあ、それほどでも‥‥。(照れる)
さゆり  それで‥‥エチゼンって何よ?
美香   地名よ、地名。
文恵   新潟県
優子   新潟は越後ですよ。越前は、福井県。あの辺でいっぱい捕れるそうなんです。
さゆり  へぇー、そうなの。
優子   そうなんです。それが、何百匹も何千匹も捕れて、網中クラゲだらけ。魚が全然捕れないんで、漁師さんたちが困ってるんです。
さゆり  ふーん。
美香   それって、食べられないの?
優子   それが、食べられるんです! 中華料理のクラゲってエチゼンクラゲらしいですよ。
さゆり  じゃあ、全部食べちゃったらいいじゃん。
優子   それがねぇ、ものすごく大きいんですよ。(手で輪を作って)これぐらい? いや、もっと大きくて、直径が一メートル以上もあるんです。それが、海中にプカプカ浮かんでるんですから‥‥。
さゆり  うわっ‥‥想像しただけで気持ち悪い。
美香   ほんと。
文恵   ‥‥でもさ、
優子   え?
文恵   福井だったら、天橋立にけっこう近いよね。
優子   ああ‥‥そうね。
さゆり  ‥‥フミちゃん、あんた、何が言いたいわけ?
文恵   だから‥‥天橋立にも来るのかなって。そのエチゼンクラゲ
優子   うん、来るわよ。舞鶴でいっぱい捕れたってニュースでやってた。
さゆり  えー!
文恵   そっかー。楽しみー。
さゆり  あ、あんた、何考えてんの?
文恵   だって、私、クラゲの酢の物とか大好きなんですよ。
さゆり  何よ、それ?
文恵   だって、クラゲって高級料理なんですよ。それに、ダイエットにもなるし。
優子   そーよねー。
文恵   うん。
さゆり  君等、アホか? そんなエイリアンみたいなのがウジャウジャ浮いてるところで、あたしたち泳ぐのよ!
美香   それって、刺すの?
優子   刺しません。浮いてるだけです。
文恵   だったら、いいじゃないですか? プヨプヨしててかわいいし‥‥。
さゆり  かわいい? お前なあ‥‥。
文恵   まあまあ、気にしない。気にしない。
さゆり  気になるって!
優子   さゆりさん、そんなにクラゲを毛嫌いしたらダメですよ。クラゲは水の母なんですから。
さゆり  は?
優子   だから、クラゲは水の母親なんです。
さゆり  はあ?
美香   漢字よ、漢字。
さゆり  漢字?
美香   だから、クラゲって、水の母って書くのよ。
さゆり  何よ、それ? あたし、漢字は苦手なの!
優子   私、漢字は得意ですよ!
さゆり  ‥‥ああ、そっ。
文恵   ‥‥でも、何で、水の母って書くんだろ?
美香   そうよねぇ‥‥。
優子   確か、「水の神様」って意味だったと思いますよ。
文恵   へぇ、クラゲが水の神様ねぇ‥‥。
美香   ‥‥「母なる海」のイメージかな?
文恵   「母なる海」が、どうしてクラゲに関係あるの?
美香   うーん‥‥わかんない。
文恵   なーんだ。
さゆり  あれだよ、あれ。‥‥クラゲってのは、ほとんど水だからさあ、それが溶けて水になったのよね。昔々、何億、何十億のクラゲがいてさ、それがみーんな溶けて、それで地球の水ができたわけ。だから、水の母親。
文恵   だったら、そのクラゲはどこにいたんですか?
さゆり  知るか! 水の中だろ?
文恵   だったらその水は‥‥。
さゆり  だから、そんなの知るかって!
文恵   ‥‥‥。
優子   海に月、とも書きますよね。
さゆり  え?
優子   だから、クラゲは海月とも書きますよね。
さゆり  なんだ、また漢字かよ‥‥。あたしゃ、寝るよ。

       さゆり、横になる。

文恵   ‥‥ふーん‥‥海の月かあ。
美香   ねぇ、どうして海月なの?
優子   うーん‥‥確か、海に浮かんでるクラゲが、月みたいに見えるからじゃないですか?
美香   じゃあ、夜のクラゲよね。
優子   そうですね。
文恵   じゃあ、エチゼンクラゲよね。
優子   え?
文恵   だって、小さなクラゲだったら、月には見えないし、デンキクラゲは‥‥ほら、何とかって言うんでしょ?
優子   アンドンクラゲ?
文恵   そう、それ! ‥‥それって、丸くないんでしょ? アンドンだから。
優子   ああ‥‥そうね。
美香   エチゼンクラゲって、発光するの?
優子   いや‥‥たぶん、しません。
美香   そっか‥‥。
優子   はい。
文恵   ‥‥それって、たぶん、月の光で光るのよ。満月の光で。
美香   ああ‥‥そっか。
文恵   そういえば、確か、中国の仙人がさ、舟の上から水に映った月を取ろうとして、溺れて死んじゃうって、まぬけな話があったじゃん。確か、高校の漢文の時に習ったやつ。
美香   ああ‥‥何か、そういうのあったね。
文恵   あれも、ひょっとしたらクラゲかもね?
美香   ああ、そうだね。
文恵   だとしたらさ、もっとマ・ヌ・ケ。

       美香、文恵、笑う。

優子   あれは、仙人じゃありません。詩人の李白です。川で酔っぱらって死んだっていう伝説なんです。
美香・文恵   ふーん。
優子   私、漢文、得意なんです!
美香・文恵   あっ、そう。

       しばしの間。

美香   ‥‥それにしてもさ、水の母とか、海の月とか、えらくロマンチックな名前よねぇ。たかがクラゲなのにさあ‥‥。
文恵   そうね。
美香   近くで見たら、けっこうグロテスクなのにさあ‥‥。
文恵   ‥‥でも、いいじゃん。
美香   え?
文恵   おいしかったらいいのよ。名前なんかどうでも。
美香   もう、色気より食い気ねぇ、あんたは。
文恵   クラゲに色気はないよ。
美香   え‥‥言葉のアヤよ!
文恵   あーあ、早く行きたいなあ、天橋立
美香   それを言うなら、早く食べたいなあ、エチゼンクラゲでしょ!
文恵   へへ。
美香   もう!
さゆり  うわっ!
全員   え?
さゆり  何よ、これ!

       さゆり、顔を押さえながら起きあがる。
       天井を見る。

さゆり  雨漏りよ、雨漏り!
全員   え!

       全員、天井を見る。

さゆり  ほら! あそこ! あそこが漏ってるのよ!
文恵   え? ‥‥あ、ほんとだ!
さゆり  だから、大丈夫?って言ったのよ。
美香   でも、今まで雨漏りなんかなかったわよ。
さゆり  現に漏ってるじゃない! よく見てよ!
美香   ‥‥フミ! 洗面器かバケツか持って来て!
文恵   え‥‥は、はい!

       文恵、走って去る。

さゆり  だから、ボロいなあって思ってたのよね。
美香   人の家の悪口を‥‥。
さゆり  事実よ、事実。
美香   ‥‥‥。
優子   いよいよですかね?
さゆり  え?
優子   私、台風好きなんです!
美香   え?
さゆり  ‥‥も一回言ってごらん。
優子   だから、私、台風大好きなんです!
さゆり  ‥‥ふーん、あんた、殺されたいわけ?
優子   いいえ。殺されたくありません。
さゆり  ‥‥ふーん。

       文恵が洗面器を持って戻って来る。

文恵   はい。
美香   じゃあ、そこに置いて!
文恵   はい。

       文恵、洗面器を置く。

さゆり  (天井を指さして)ほら‥‥あそことか、あそこも、やばいんじゃない?
文恵   そんな、洗面器いっぱいありませんよ。
さゆり  だったら、ボールでも、コップでもいいから、ありったけ持って来てよ!
文恵   そんな、一人で持てませんよ。
美香   私も行くわ。

       美香、文恵、走って出て行く。

さゆり  ‥‥もう‥‥踏んだり蹴ったりね。
優子   いよいよって感じになってきましたね。
さゆり  だから‥‥。
優子   何ですか?
さゆり  もう、いい!
優子   ?

       洗面器に落ちる雨音。
       強まる風雨。

       暗転。

       二日目の夜。
       風雨の音。
       部屋のあちこちに洗面器やコップ。
       美香、さゆり、疲れて横になっている。

文恵   ‥‥今、東京の真上を通過中らしいですよ。
優子   いよいよですね!
美香   ‥‥ふーん。
さゆり  ‥‥もう、好きにして。
美香   あーあ‥‥もう、疲れた。‥‥寝よっかなあ‥‥。
さゆり  ‥‥あたしも。
優子   何言ってるんですか? これからじゃないですか!
さゆり  ‥‥何が?
優子   だから‥‥台風。
美香   そんなに好きだったら、一人でテレビ見てたら?
優子   えー。‥‥みんなで見ましょうよ!
美香   私はいい。
さゆり  あたしも。
優子   ‥‥フミちゃんは?
文恵   私、朝から何回も見てるから‥‥。
優子   えー‥‥。
文恵   ‥‥‥。わかった。見る。
優子   そう? じゃ、行きましょ、行きましょ。
文恵   うん‥‥。

       優子、文恵、去る。
       長い沈黙。

美香   ‥‥こういうのも、久しぶりね。
さゆり  ‥‥え?
美香   ‥‥ほら、昔みたいに馬鹿騒ぎしたいって言ってたじゃん?
さゆり  ‥‥ああ。
美香   ‥‥子供の頃さ、台風とか来たら、大騒ぎしてなかった?
さゆり  ‥‥ああ、そっかな。
美香   そうだよ。‥‥なんか、イベントみたいでさ。ワクワクしてたって言うか‥‥。
さゆり  なんだ。‥‥それじゃ、優子とおんなじじゃん。
美香   はは‥‥そうだね。
さゆり  ま、優子は、もう子供じゃないんだけどね。
美香   それは、そうね。
さゆり  そこが、問題なのよねぇ。
美香   うん。‥‥思い出すなあ‥‥お父さんがさ、台風が近づいて来ると、会社を早引きして帰って来てさ‥‥板きれとかトンカチとか持ち出して、雨戸とかにトントン、カンカンやるのよ。‥‥それを後ろでずうっと見てた。
さゆり  へぇ‥‥うちは、そんなのしなかったな。
美香   そういう時、「やっぱりお父さんなんだ」って思ったのよね。
さゆり  え? それ、どういう意味?
美香   だから‥‥「いざという時、やっぱりお父さんは頼りになるんだ」って思ったのよ。
さゆり  ああ‥‥そういう意味か。
美香   うん。
さゆり  ‥‥美香さんのお父さんってさ、去年亡くなったんだよね。
美香   うん‥‥十二月の八日。
さゆり  年末だよね‥‥大変だったでしょ?
美香   うん、もうバタバタで、わけがわかんなくって‥‥。気が付いたらお正月って感じ。
さゆり  そっかあ‥‥。
美香   うん。
さゆり  ‥‥いくつだったの?
美香   六十一。
さゆり  若いね。
美香   そうだね。
さゆり  病気だったの?
美香   心不全。前の日までは元気だったらしいのよ。
さゆり  突然死?
美香   まあ、そうなるのかな?
さゆり  ふーん。

       しばしの間。

さゆり  ‥‥あのさ。
美香   何?
さゆり  お父さん、好きだった?
美香   さあ、どうだろ? ‥‥別に嫌いじゃなかったけど‥‥。
さゆり  お母さんと比べたら?
美香   うーん‥‥うちは、ちょっとややこしいからねぇ。
さゆり  ああ‥‥そうだったね。ごめん。
美香   いや、別にいいんだけど‥‥。

       しばしの間。

美香   ‥‥私が六年で、フミが三年生だったのよね。‥‥だから、育ててもらったっていう気持ちは強くあるのよ。だから、感謝の気持ちもね。
さゆり  ふーん。
美香   でも、だからって、お母さんと比べてどうとかとも思えないのよねぇ。‥‥お父さんに対する気持ちとお母さんへの気持ちは、全く別って気がする。比較したりできないのよ。
さゆり  ‥‥なるほどね。
美香   フミはまた違うんだろうけど‥‥。
さゆり  ふーん、そうなんだ。
美香   フミはお母さんっ子だったからね。それに、まだ小さかったし‥‥。
さゆり  それなら、どうしてフミちゃんは、お母さんについて行かなかったの?
美香   うーん、よくわからないけど、いろいろあったんだろうね。‥‥経済的な話とか。
さゆり  ああ、そうだよね。
美香   うん。
さゆり  ‥‥それで、お母さんは、今、どうしてるの?
美香   え?
さゆり  だから‥‥再婚したの?
美香   ううん‥‥独身。
さゆり  へぇ‥‥そうなんだ。
美香   うん。
さゆり  どうしてかな?
美香   よくわかんない。‥‥わかんないけど、この頃、ちょっと考えるようになったのよ。
さゆり  え、何を?
美香   うーん、何ていうのかな? ‥‥今までは、お母さんとしてしか考えてなかったんだけど、なんか一人の女性として見るようになったっていうか‥‥。
さゆり  ふーん。
美香   結婚したせいかな?
さゆり  ‥‥ああ‥‥かもね。
美香   それに、自分自身が離婚を考えるようになったのもあるかもしれない。
さゆり  ああ‥‥。
美香   一人の女性の生き方として、同じ土俵に立ったっていうか‥‥。
さゆり  ふーん。‥‥私にはよくわかんないな。結婚もしてないし‥‥。
美香   お父さんの葬式のことがあってさ、何回か、お母さんに会ったり、電話したりすることがあったのよね。‥‥それで変な話だけど、やっと友達になれるような気がしてるのよ。‥‥同じ女性として。
さゆり  へぇ‥‥深いね。
美香   いや、別に、そんなに難しい話じゃないんだけどさ‥‥。

       しばしの間。

さゆり  ‥‥確かに親がトシとると、昔とは見方が変わるっていうのはあるよね。
美香   うん。
さゆり  この人たちにも若い頃とか青春とかあったんだろうな、とかね。
美香   そうそう。
さゆり  うちは恋愛結婚だったらしいんだけど、その頃の写真とか見ると、不思議な感じがする。
美香   何で?
さゆり  だって、今の私より全然若いのよ。二人とも。
美香   ああ、なるほど。
さゆり  そういうのを見ると、何か変な感じ。タイムスリップしたみたい。
美香   ‥‥うちはね、そういう写真は残ってないのよねぇ。
さゆり  え? 何で?
美香   たぶん、離婚した時に処分しちゃったのよね。燃やしちゃったか、捨てちゃったか。‥‥ひょっとしたらお母さんが持ってるかもしれないけど。
さゆり  あんたたちの子供の時の写真も?
美香   それは残ってる。でも、夫婦二人きりの写真はないんだ。一枚も。
さゆり  へぇ‥‥。何か、さびしいね。そういうの。
美香   ‥‥そうだね。

       しばしの間。

美香   ‥‥どんな人生だったのかなあ?
さゆり  え?
美香   離婚してから十五年? 男手一つで子供育てながら、何考えて生きてたんだろう?
さゆり  ‥‥そういう話はしなかったの?
美香   しなかったなあ‥‥。ていうか、父親ってあんまり子供としゃべらないでしょ? そういう話。
さゆり  ああ‥‥そうかもね。
美香   今だったら、しゃべれるような気がするんだけどなあ‥‥。
さゆり  親子差し向かいで日本酒とか飲んで?
美香   そうそう。
さゆり  でも、そういうの、やっぱり息子の方が絵になるけどね。
美香   ああ、そうだね。‥‥ひょっとしたら男の子がほしかったのかな? 親子でキャッチボールとかしてさ。
さゆり  それは、えらく古典的だね。
美香   そっかな?
さゆり  そうよ。
美香   ‥‥でも、六十一って、若いよねぇ。
さゆり  うん、そうだね。
美香   やっと定年迎えてさ、子供も大人になって、これからってとこなのにさ。
さゆり  第二の人生?
美香   そうそう。‥‥いろいろやりたかったんだろうな。旅行とか趣味とか‥‥。
さゆり  ひょっとしたら、恋も?
美香   え? ‥‥それはどうかな?
さゆり  最近の六十って、まだまだ恋愛できるトシだよ。
美香   そうかな? ‥‥とにかく、何だかかわいそうだね。
さゆり  そうだね。‥‥かわいそう。

       家の外からスピーカーの声がする。

声   こちらは警視庁です。ただ今、東京都に夜間外出禁止令が発令されています。都民の皆さんは、くれぐれも不要の外出はお控え下さい。こちらは警視庁です。‥‥

美香   今の何?
さゆり  夜間外出禁止令って? ‥‥台風?
美香   それなら、避難命令でしょ?
さゆり  じゃあ‥‥じゃあ、何よ?
美香   やっぱり、例の陸軍の‥‥?
さゆり  えー! それじゃ、本当なの?
美香   かもしれない。
さゆり  そんな‥‥。

       停電!

さゆり・美香   うわっ!
優子・文恵の声   キャー!
さゆり  何? 停電?
美香   みたい。
さゆり  どうしよう?
美香   フミ! フミ!
文恵の声   なーにー?
美香   そっちの部屋にランタンがあったでしょ?
文恵の声   ランタン?
美香   そうよ。電池式のランタン。あれ、持って来て!
文恵の声   えー! そんなの、暗くてわかんないよ!
美香   たしか、テレビの上よ。
文恵の声   え? テレビの上?
美香   そう! テレビの上!

       しばしの間。

美香   あった?
文恵の声   あったー!
美香   じゃあ、持って来て!
文恵の声   わかったー!

       しばらくして、文恵と優子が戻って来る。
       文恵の手にはランタン。

美香   そこ置いて。

       文恵、ランタンを机の真ん中に置く。

さゆり  よく、こんなのがあるわね?
美香   お父さん、けっこう心配症でさ、いろいろ用意してあんのよ。地震用のヘルメットとかリュックとかもあるよね。
文恵   うん。
さゆり  へぇ。
優子   これで、いよいよって感じですね!
さゆり  もう! あんた何考えてんのよ!
美香   それにしても、停電なんて、ほんとに久しぶりだよね。
さゆり  そうね。
文恵   ‥‥でも、なんか懐かしい感じ。
さゆり  え?
文恵   こうしてみんなで火を囲むと、なんかしみじみしません?
さゆり  ‥‥かな?
優子   キャンプファイヤーですよ!
さゆり  え?
優子   みんなでキャンプファイヤーやってる感じですよね!
文恵   ‥‥そういえば、そうかな?
優子   みんなで、何か歌いません?
さゆり  あんたねぇ‥‥。
美香   それにしても、さっきの何だったのかな? 夜間外出禁止令って‥‥。
優子   だからあ‥‥。
さゆり  あんたは黙ってて!
文恵   そうそう、西崎国防大臣が、臨時特別内閣を作ったって。
美香   え?
文恵   それで、国会はしばらく停止するって。
さゆり  停止って、そんなのできるの?
文恵   何だか、国会議員も、いっぱい逮捕されてるみたいですよ。
美香   ‥‥やっぱり、そうなのかあ?
さゆり  やっぱりって?
美香   だから‥‥優子さんのクーデター説。
優子   え? そうなんですかあ?
美香   まだ、よくわかんないけどね‥‥。
優子   はあ‥‥。
美香   私、ちょっと電話してみる。
さゆり  え? 誰に?
美香   だんな。
さゆり  え?

       美香、携帯電話を取り出して、電話をかける。
       しばらく耳に当てているが、やがてあきらめる。

美香   だめだ。
さゆり  出ないの?
美香   ううん。「この電話は、回線のトラブルにより使用できません」って。
さゆり  回線のトラブル?
美香   うん。
文恵   そんなの、聞いたことないよね。
優子   「ただ今、大変混み合っており、かかりにくくなっています」とか「お客様が電波の届かない所におられるか、電源が入っていないため、かかりません」とかが普通ですよね。
文恵   うん。
美香   メールはどうだろ?

       美香、メールを打つ。

文恵   一緒なんじゃないの?
さゆり  いや、案外、メールはいけるかも?

       美香、携帯電話を閉じる。

美香   やっぱり、ダメかあ‥‥。
さゆり  今度は、何て?
美香   いや、単に「送信に失敗しました」って。
さゆり  ふーん。
文恵   停電のせいかな?
美香   いや、非常用電源ぐらいあるはずよ。
文恵   ああ、そっか。
さゆり  ‥‥おかしいね。
美香   うん‥‥おかしい。
優子   あれじゃないですか?
全員   え?
優子   わざと停電させてるんですよ!
全員   え?
さゆり  何のために?
優子   だから‥‥テレビとかラジオとか見れないように‥‥。
さゆり  ‥‥そんなことして、何になるのよ?
優子   ‥‥さあ?
さゆり  なーんだ。
美香   ちょっと待って。‥‥意外とそれはアリかもね。
さゆり  え? どうして?
美香   だから、テレビとかラジオじゃ意味ないかもしれないけど、ネットも使えなくなるじゃない?
さゆり  ああ‥‥そうだね。
美香   ネットの情報がストップするって、けっこう大きいんじゃない?
文恵   それは、言えてる。
美香   ね。
さゆり  ああ‥‥そうかもね。
優子   でしょう?
全員   ?
美香   ‥‥現にこうして携帯も使えなくなってるし‥‥情報がストップしてるのよ。
さゆり  でも、何のために?
美香   だから‥‥
優子   クーデターですよね!
美香   ‥‥その可能性は、否定できないわね。
優子   でしょう?
文恵   ‥‥どうなっちゃうの?
さゆり  そんなの、わかんないよ。
美香   フミ‥‥いや、私、言って来る。
文恵   え、どこへ?
美香   ベランダ。‥‥外の様子を見て来る。
さゆり  風が吹いてて危ないよ。
美香   わかってる。
文恵   暗いよ。
美香   大丈夫よ。自分のウチなんだから。‥‥じゃあ、すぐ戻るから。

       美香、部屋を出て行く。

文恵   ‥‥行っちゃった。
さゆり  うん。

       しばしの間。

文恵   ‥‥どうなっちゃうのかなあ?
さゆり  クーデター? 台風?
文恵   どっちも。
さゆり  そっか。
優子   こういう時って、
さゆり・文恵   え?
優子   みんなで怖い話するんですよね。
さゆり・文恵   ‥‥‥。
優子   百物語。‥‥あ、あれって、ロウソクじゃないとダメなんですよね。‥‥残念。
文恵   優子さん。
優子   はい?
文恵   あなた、何考えてるんですか?
優子   はあ?
さゆり  フミちゃん、いいのよ、この子は‥‥。
優子   え、そうなんですかあ?
さゆり  はい。はい。
優子   します? 怖い話。
さゆり  ‥‥いいわよ。‥‥台風とクーデターだけで、もう十分怖い話よ。
文恵   はは‥‥そうですね。
優子   ああ、そうですね!
さゆり・文恵   ‥‥‥。

       美香が戻って来る。

文恵   あ、お姉ちゃん!
美香   ただいま。
さゆり  で、どうだった?
美香   思った通り。東京中真っ暗みたい。池袋の方も、新宿の高層ビルも明かりが見えないのよ。
さゆり  そう。
優子   東京大停電ですね!
美香   ‥‥そうね。
さゆり  じゃあ、やっぱり‥‥。
美香   ‥‥そうみたいね。
さゆり  そっか。
美香   うん。
文恵   それで、台風の方は?
美香   それが、雨も降ってないし、風も吹いてないのよ。不気味なくらいに静かなの。
文恵   え? 何で?
美香   わかんない。‥‥シーンと静まりかえってる中で、遠くの方でパトカーとか救急車のサイレンが小さく鳴ってるだけなの。それで、あたりは真っ暗でしょ? あんな不思議な風景を見るのは初めて。
優子   きっと、あれですよ!
美香   え?
優子   台風の目に入ったんですよ!
さゆり  えー! 冗談言わないでよ!
美香   ‥‥ひょっとしたら、そうかもしれない。
さゆり  えー!
優子   もしかしたら、星とか見えるかもしれませんね。
文恵   ‥‥優子さんは、いいですね。
優子   え?
文恵   楽しそうで。
優子   え? そっかなあー?
全員   ‥‥‥。
文恵   ‥‥どうなっちゃうんだろ?
美香   クーデター? 台風?
文恵   どっちも。
美香   そっか。

       しばしの間。

文恵   ‥‥戦争になるのかなあ?
美香   そうねぇ‥‥。
さゆり  それはないわよ。
文恵   え? どうして?
さゆり  だって‥‥だって‥‥だって、ほら、今は二〇一五年なんだから。
美香   ‥‥何よ、それ?
さゆり  ‥‥‥。

       突然、あざやかに月光が射し込む。

優子   あ! 月だ!

       しばし、全員、窓を眺める。

文恵   ‥‥きれい。
美香   ‥‥そうね。
さゆり  ♪月が出た出た 月が出た‥‥。
全員   え?
さゆり  さ、みんな歌って踊ろうよ!
全員   え?
さゆり  うじうじしてたら、気分が落ち込むだけじゃん! さあ、みんな立って!
美香   ‥‥飲んでるの?
文恵   ううん。
さゆり  さあ、ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと立つ!
優子   さゆりさん、どうしたんですか?
さゆり  あんたに言われたくないわよ!
優子   え? そうですかあ?
さゆり  さあ、歌って踊ろうぜ! 行くぜ! ♪スチャラカチャンチャカ スチャラカチャンチャン‥‥

       全員、しぶしぶ立つ。

さゆり  ♪月が出た出た 月が出た ヨイヨイ 三池炭坑の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ サノヨイヨイ
スチャラカチャンチャカ スチャラカチャンチャン

       全員、手拍子。

さゆり  ♪月が出た出た 月が出た ヨイヨイ 三池炭坑の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ サノヨイヨイ
スチャラカチャンチャカ スチャラカチャンチャン
踊り踊るなら チョイト 東京音頭
全員   ヨイヨイ
さゆり  花の都の 花の都の真ん中で
全員   サテ ヤ?トナ?ソレ ヨイヨイヨイ ヤ?トナ?ソレ ヨイヨイヨイ

       夜が更けていく。
       暗転。

       三日目。
       台風一過、快晴である。
       女たち、ごろ寝をしている。
       さゆりだけが立ち上がっている。

さゆり  ♪朝だ 朝だよ 朝日が昇る 空に真っ赤な日が昇る
美香   ‥‥晴れたね。
文恵   うん。
美香   台風一過だ。
文恵   うん。

       美香、伸びをする。

美香   あーあ。‥‥フミ、寝た?
文恵   うーん、明け方、ちょっとだけウトウトしたかな? 風の音がすごかったから。
美香   そっか。‥‥あたしもだ。‥‥どうする? 寝る?
文恵   ‥‥そうねぇ。
さゆり  ♪海だ 海だよ 泳ぎに行くぞ 浜にゃいっぱいクラゲ出る
さあ、天橋立に行きますよ?ん!
美香   え?
優子   え? 行くんですかあ?
美香   新幹線動いてないでしょ?
文恵   それが‥‥動いてるのよ。
美香   え?
文恵   ニュースでさ、八時頃から運転再開だって‥‥。それ聞いて、さゆりさん喜んじゃって‥‥。
さゆり  さーさ、お片づけ、お片づけ。‥‥出発の準備してよ。

       さゆり、部屋を片づけ始める。

優子   ‥‥でも、休みおわっちゃいますよ!
さゆり  ♪平気、平気、平気なの?
優子   え? どうしてですかあ?
さゆり  それはね‥‥ヒ・ミ・ツ。
優子   えー!
さゆり  うそうそ。‥‥あのね、街中のお店は、みーんなお休みなの。
優子   えー? どういうことですかあ?
文恵   なんか、東京都の通達で、しばらくの間、大型店舗は休業なんだそうですよ。食料品関係とかは開いてるらしいけど。
優子   えー? ほんとうですかー?
さゆり  ほんとだよーん。
美香   しばらくの間って?
文恵   よくわかんない。しばらくの間ってしか言ってなかったから。
美香   ‥‥それって、流通関係の問題なのかな?
文恵   わかんない。
さゆり  だから、とにかく、お休みなのよね。お休み。
優子   でも、お店に連絡してみないと‥‥。
文恵   それが‥‥。
優子   え?
さゆり  もう、連絡はしたのだよーん。
優子   え?
さゆり  店長の携帯に電話してね、お休み伸ばして下さいって。
優子   えー? いつの間に?
さゆり  あんたたちの分も頼んどいたから。
優子   えー。そんなー。
さゆり  悪かったー?
優子   ‥‥いや‥‥別に。
さゆり  じゃ、そういうことで。‥‥そこんとこヨロシク。
美香   じゃあ、電話かかるの?
さゆり  かかるよーん。

       美香、携帯電話を取り出す。

文恵   ‥‥浩二さん?
美香   うん。

       美香、しばらく待つが、やがてあきらめる。

文恵   やっぱり、だめなの?
美香   呼び出し音は鳴るんだけど‥‥出ないのよ。
優子   こちらはNTTドコモです。お呼びしましたがお出になられません。しばらくお待ちになって、もう一度おかけなおし下さい。
美香   うん‥‥それそれ。
文恵   そっか‥‥どうなってるのかな? ‥‥メールは?
美香   今から、してみる。

       美香、メールを打つ。

優子   電話がかかるんだったら、メールも送れるんじゃない?
文恵   うん、だろうけど‥‥問題は、その後よね。
優子   後って?
文恵   だから、返事が来るかどうか。
優子   あ、そっか。
文恵   うん。

       美香、メールを打ち終わる。

文恵   どう?
美香   送れることは、送れた。
文恵   ‥‥後は、返事よね。
美香   うん。
文恵   ‥‥ここしばらく、連絡もなかったんでしょ?
美香   ‥‥うん。
文恵   じゃあ、期待薄だよねぇ‥‥。
美香   ‥‥‥。
さゆり  さあ、みんなも片づけて、さっさと出発しよう!
全員   ‥‥‥。
さゆり  あれ? ‥‥そうだ、美香さんどうするの?
美香   え?
さゆり  一緒に行かない?
美香   え?
さゆり  どうせ、することないんでしょ?
美香   ‥‥まあ‥‥そうだけど。
さゆり  じゃあ、いいじゃん。一緒に行こうよ。天橋立
美香   ‥‥でも。
さゆり  一人ぐらい何とかなるよ。‥‥こんなとこに一人でボーッとしてたって、気持ちが塞がるだけだよ。パァッと行こうよ、パアッと。
美香   うん‥‥。

       美香の携帯が鳴る。

美香   あ!
文恵   返事だ!

       美香、携帯を取り上げる。

文恵   浩二さん?
美香   うん。
文恵   何て?
美香   ちょっと待って。

       美香、メールを読む。

文恵   何だって?
美香   それが‥‥。
文恵   どうしたの?
美香   なんだろう? これ?

       美香、文恵に携帯を見せる。

文恵   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
‥‥何、これ?
美香   ‥‥和歌だよね。
文恵   うん。
美香   ‥‥百人一首
文恵   かな?
優子   それは、百人一首じゃありませんよ!
美香   え?
優子   有名な歌ですけど、百人一首には入ってないんです。
文恵   へぇ。
さゆり  相変わらず、変なことには詳しいわね。
優子   私、百人一首得意なんです!
さゆり  あっそ。あたしは、古典は苦手なの。
文恵   ‥‥どういう意味かな?
美香   確か、高校で習ったんだけどなあ‥‥。
さゆり  よし。あたしが説明してあげよう。‥‥だからさ、暑くて暑くてもう秋なんか来ないぞって思うぐらいに暑くて寝苦しい夜だったのよね。そんな丑三つ時にさ、誰か人の気配がしてさ、びっくりしてあたりを見回すけど、何も見えないの。するとサーッと風が吹いてきて、障子とかがカタカタって揺れたのよね。それでゾーッとして涼しくなったって歌。
文恵   ‥‥ほんとですか?
さゆり  あたしを信じないわけ?
優子   全然違いますよー!
さゆり  当たり前じゃん。口からでまかせよ。古典は苦手って言ったでしょ!
文恵   じゃ、どんな歌なの?
優子   これはね、立秋の歌なんです。‥‥立秋になって、もう秋が来たんだと目でははっきりとわからないけれど、あたりを吹き抜けて行く風の音にハッと気づかされたことであるよ。‥‥そんな意味です。
さゆり  おどろきはどこ行っちゃったのよ? おどろきは?
優子   だから、「おどろく」っていうのは、びっくりすることじゃなくて、「ハッと気づく」という意味なんです。
文恵   ああ、なんか習ったような気がする。
さゆり  へん、何が「気づかされたことであるよ」なのよ! 和歌なんてみーんな「なんとかなことであるよ」ばっかじゃない? そんな変な日本語は使わないことであるよ。
文恵   ‥‥それも、そうですね。
美香   どういう意味なんだろう?
優子   だからあ‥‥
美香   じゃなくって、どうして、こんな歌をメールで送って来たんだろ?
文恵   ああ‥‥そうだね。
美香   ‥‥どうして和歌なんだろ?
優子   それってあれですよ!
美香   え?
優子   恋文ですよ! 昔の人は、恋の想いを和歌に託して送ったんですよ。
美香   ‥‥それはないわよ。そんな風流なことをする柄でもないし‥‥。第一、どうして、こんな時に恋文なのよ?
優子   それもそうですねぇ‥‥。
美香   うーん。
文恵   うーん。
優子   それじゃ、あれですよ!
美香   え?
優子   暗号! ‥‥ほら、ドラマなんかでよくあるじゃないですか? 死体が残した謎のメッセージとか!
文恵   ちょっと‥‥縁起でもないこと言わないでよ! サスペンスドラマの見すぎよ!
優子   ‥‥かなあ?
美香   いや、それは案外あるかもしれない‥‥。
文恵   え?
優子   でしょう?
文恵   浩二さん、命が危ないの?
美香   いや‥‥それはわからないけど‥‥とにかく、ストレートにはメールを送れないってことじゃない?
文恵   どういうこと?
美香   たとえば‥‥電話を盗聴されてるとか。
文恵   ああ‥‥なるほど。
優子   メールだから、盗聴じゃなくて、傍受ですよ。
文恵   でも、誰が?
さゆり  だから、陸軍なことであるよ。
文恵   じゃ‥‥やっぱり?
美香   うん。
文恵   ‥‥そっか。

       しばしの沈黙。

美香   ‥‥それで、もし暗号だとしたら、どういう暗号なのかが問題よね。‥‥どういうメッセージなのか?
文恵   だよね。
美香   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる‥‥ 。
文恵   うーん‥‥なんだろ?
美香   うーん。
優子   あれじゃないですか?
美香   あれって?
優子   だから、台風がゴーッと通り過ぎたら、知らないうちに秋になってたよ、とか。
美香   え?
優子   ほら、百人一首にもあるじゃないですか? ‥‥吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ。
文恵   ‥‥それと、メールと何か関係あるわけ?
優子   え? ‥‥ほら、だから‥‥台風だから、秋だって。
文恵   秋だから‥‥何?
優子   何って言われても‥‥。
さゆり  それ、ひょっとして、単なる百人一首自慢?
優子   いや‥‥その‥‥。
文恵   なーによ、それ!
美香   ‥‥でも、「風の音」が台風を意味してるってのは、アリじゃない?
優子   はは‥‥でしょう?
文恵   ‥‥かなあ?
美香   とすると、問題は、「おどろかれぬる」よね。‥‥ハッと気づいたのは何なんだろ?
優子   だから、秋が来たんですよ!
文恵   だから、秋だから何なのよ?
優子   だからあ‥‥。
美香   秋が来た‥‥か。‥‥知らないうちに季節が夏から秋に変わっていたってことよね‥‥。いつの間にか季節は変わっていた‥‥。
さゆり  もう、いいじゃない!
美香   え?
さゆり  そんな推理ごっことか、古典の授業みたいなのは、もういいじゃない! さっさと準備してさ、出発しようよ!
美香   でも‥‥。
さゆり  ダンナが元気なのはわかったんだから、もういいじゃない? ゴチャゴチャしたことはみんな忘れてさ、パーッと行こうよ、パーッと。
全員   ‥‥‥。
さゆり  グズグスしてたら今日中に着けないよ。それに、また、新幹線がいつ止まるかわかんないんだしさ‥‥。
全員   ‥‥‥。
さゆり  さあ、出発だー! ‥‥美香さん、どうすんの? 行くの? 行かないの?
美香   私は‥‥やっぱりやめとく。
さゆり  何よ? しおらしくダンナの帰りを待つわけ? パーッと離婚するんじゃなかったの?
美香   それと、これとは‥‥。
さゆり  そんなのウジウジ悩んでたらダメよ。人生、決断が大事なのよ。女は、やる時はやるの!
美香   それは、わかってるけど‥‥。
さゆり  いいわ。好きにしたら? ‥‥さあ、みんな準備はOK?
優子   いいですよ。
文恵   私も。
さゆり  そう。‥‥それじゃ、出かけるわよ。
優子・文恵   はい。
さゆり  さあ、脱出だあー!
優子・文恵   え?
美香   ‥‥それじゃ、気をつけて。
文恵   お姉ちゃんもね。
美香   うん。
文恵   着いたら、電話するから。
美香   うん。
さゆり  何よ、何よ、あんたたち湿っぽいわね。それじゃまるで今生の別れみたいじゃない?
文恵   ‥‥今生の別れって。
さゆり  え? 何?
文恵   さゆりさん、よくそんな難しい言葉知ってますね。
さゆり  こら! 馬鹿にすんな!
文恵   へへへ。
さゆり  (美香に)じゃあ。
美香   じゃあ。
優子・文恵   行ってきまーす。

       全員、お互いに手を振る。
       さゆり、優子、文恵、去る。
       美香、一人部屋に残る。

       しばしの間。

美香   ‥‥今生の別れ、か。‥‥ハハハ。

       美香、しばらく何か考えている。

美香   ‥‥秋来ぬと目にはさやかに見えねども、
     ‥‥風の音にぞおどろかれぬる。

       しばしの間。

美香   はい!(机の上のカルタを取るしぐさ)

       音楽。井上陽水「傘がない」。

美香   大江山生野の道の遠ければ
     まだふみもみず天橋立
     ‥‥ハハハ。

   はい!(畳の上をたたく)

   吹くからに秋の草木のしをるれば
   むべ山風を嵐といふらむ

   はい!

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども
   風の音にぞおどろかれぬる

   はい!

       暗転。

     テレビでは
     我が国の将来の問題を
     誰かが
     深刻な顔をしてしゃべってる
     だけども問題は
     今日の雨 傘がない
     行かなくちゃ
     君に会いに行かなくちゃ
     君の家に行かなくちゃ
     雨の中を

                         おわり