真面目に不真面目なさい

5年ほど前に書いた文章が出てきた。「不真面目のすすめ」みたいなの。
何でこんなの書いたのかな? 忘れてしまった。

〈覚え書き〉

体罰事件が起こるたびに、加害教師は「生徒のためを思ってやった」と言う。

何を言ってるんだか? と思う人は多いだろうし、思う教師も多いだろう。

だが、しかし、自分たちも同じようなことをしていることに無自覚であることが余りにも多い。

世の中にはひどい教師も多いが、真面目な教師も多い。そして、実はこの真面目な教師こそが曲者なのだ。真面目な教師は「生徒のために」と本気で思って一生懸命がんばる。それこそ、家庭を犠牲にしたり、睡眠時間を削ったりしてまでがんばったりする。

だが、「生徒のために」がんばったことが、必ずしも「生徒のために」なっていないことに気づいているだろうか? 教師の指導や気遣いや助言が、しばしば「いらぬおせっかい」であることに気づいているだろうか?

「生徒のために」と思う動機自体は正しいのかもしれない。(正しくないかもしれないが。)だが、その動機の正しさが、結果の正しさを担保するものでは全くないということ。その認識に欠けるのではないか? それ故に「こんなに君たちのためにがんばっているのにどうしてわかってくれないんだ?」という甘えが生まれる。簡単なことだ。わかるようにやれてないだけだ。

畢竟「がんばっている」なんてのは、自己満足なのだ。自分に酔っているだけである。歪んだヒロイズムである。それを押しつけられるのは、生徒にとってはありがた迷惑である。この構造は、独り教師、生徒の関係だけの話ではない。この「がんばる」の神話と信仰は、それこそ日本中の至る所に存在する。そして、これには悪気がないだけにかえってタチが悪かったりするのだ。

ゆえに、私は思うのだ。教師はもう少しプラグマチストであるべきだ。動機なんかより結果と効果にこだわるべきだ。そして、こうも考える。「生徒のために何ができるか?」よりも「生徒のために何をしてはいけないか?」から始めるべきではないか? 

坂口安吾は「親はあっても子は育つ」と言った。これは児童虐待の話ではない。「子供のために」「よかれ」と思って行う親の教育(しつけ?)が、子供の成長の阻害要因となることは少なからずあるのだ。その意味で、教育に関しては「小さな政府」であるべきと思うのだ。(似たようなことを誰かが言ってたな。ルソーだっけ?)

疲れたので、つづく。


〈覚え書き つづき〉

教師よ、もっとプラグマチックであれ、というのは、ひょっとしたら、演劇の経験から派生した思いなのかもしれない。

というのは、演技のリアリティとリアリズムについて、常々思うところがあるからだ。

昔々、若かった頃は、ずいぶん偉そうに演出をしていたものだった。それこそ蜷川気取りというか(というより、むしろそれをパロディにしたつかこうへいの「腹黒日記」の影響だが)、灰皿こそ投げなかったけど、スリッパを投げまくって怒鳴りながらやってたもんだ。若かったんだねぇ。

その時によく言ってたのが、「気持ちなんかどうでもいいんだ。そう見えるかどうかなんだ。」ということだった。

「本気で悲しい気持ちになったって、悲しく見えなかったらどうしようもないんだ。それより『早く稽古を終わって吉野家に行きたい』と思ってたとしても、悲しく見えてたら、そっちの勝ちなんだ。」みたいな乱暴なことをいつも言ってた。

まあ、確かに乱暴なんだけど、根本的に間違っているとは今でも思わない。

ちゃんと演劇の勉強をしたことがないので、偉そうに言うのは憚られるが、演劇にはリアリズムの伝統がある。極端に言うと、涙が出なかったら、本当に悲しくなって涙が出るまで5時間でも10時間でもやってろという「ガラスの仮面」的な演劇理論みたいなのがあるとかないとか‥‥。少なくとも、私を含めた素人には、そういう徹底的なリアリズムのイメージがあるのではないだろうか?

で、もし、そういうものがあるとすれば、私としては「?」と思ってしまったのだ。そのリアリズムにはリアリティがあるのか?と。

たとえば、ケンカとか乱闘を演じるとする。舞台上で本気でケンカをすればいいのだろうか? 私にはそう思えない。だって、本気のケンカって組んずほぐれつでごちゃごちゃしてて、何やってるかよくわかんないよ。例えば、あの伝説の猪木VSアリの試合みたいなもんだ。やってる当人は本気なんだろうけど、見てる方からしたら全然迫力が感じられなかったじゃない?

ということで、リアリズム≠リアリティなんじゃないかと、素人ながらに考えた。

これに関してはもう一つ。

演劇を始めた頃、知り合いの劇団の稽古に音響係として参加したことがあった。その時、その主宰者が、役者たちに「キャラ文」というのを書かせていた。正式には何と言うのか知らないが、その「キャラ文」とは、自分の演じる人物の生い立ちとか境遇とかを想像して書かせるものだった。その主宰者は高校演劇部の出身者だったので、ひょっとしたら高校演劇独特の作法なのか、一般的な演劇作法なのかわからないのだが、とにかく、役になりきるためには必要な物ということだったみたいだ。

気になったので、ちょっとネットで調べてみたら、やはりこういう文章に出くわした。

舞台の面白さは、もらった役を、舞台の上で「生き抜く」ことにある。そのためにはその役をちゃんと理解しないといけない。つまり「キャラ作り」が絶対必要になる。台詞からは逆算して心の状態、つまりその感情が生まれた状況や理由までを考えたキャラ作りのためには、「心・感情の理由」からさらに逆算の道をたどる。それは
○その感情の反応は、キャストのどんな性格から来てるのか?
○その性格は生まれ持ってなのか?なにかのきっかけでそうなったのか?
○そのきっかけとは何か?特別な経験があるのか?どんな生い立ちをしたのか? 
つまり、「その役の人生をたどる」ことになる。大変だけれども、ぜひやってほしい。

うーん。どうなんだろ? 「役を生き抜く」か‥‥。よく耳にする言葉ではあるけど‥‥どうなんだろ?

正直言って、この手の発想には私は違和感を感じてしまう。少なくとも、「生き抜くこと」が「リアリティ」に結びつくとはあまり思えない。まあ、もちろん、どういうタイプの演劇をするかにもよるのだろうけれど。

後に、自分で脚本を書くようになって、この思いはますます強くなった。これも、脚本の書き方によって違うのだろうけれど、私の場合は、登場人物の関係性は、アンサンブルによって成立する。よって、登場人物のリアリティは、その場面におけるその人物の位置づけ、役割が第一義となる。すなわち、「この場面におけるリアリティとは何か?」「その場面に要求されているリアルとは何か?」に尽きる。

もちろん、そこに至る人物の性格付けなどはあるわけだが、それは脚本家が考えることであって、演者が想像した生い立ちや性格の帰結ではない。いや、むしろ、そういう演じられ方をすると困る場合の方が多いだろう。

だから、極論かもしれないが、「気持ちなんかどうでもいい」になってしまうわけだ。それより「ここで自分に求められているのは何か?」が重要なのだ。

確かに「どう見えるか」→「どう見せるか」をだけ追求して行くと、下手をすれば表面的で類型的な表現に陥るリスクもあるわけで、一概にリアリズム≠リアリティという言い方が乱暴であることを認めるにやぶさかではないのだが‥‥。

また疲れてしまった。つづく。


〈覚え書き つづきのつづき〉

「がんばっている」人は悪気がないから自分の非に無自覚であってタチが悪い‥‥ということを書いた。

それに関連して、「真面目」と「不真面目」について、ちょっと真面目に考えてみる。なんか言葉がごちゃごちゃしててややこしいけど。

まあ、「がんばっている」人は、得てして真面目な人である場合が多い。この「がんばる」と「真面目」は、概ねベクトルとしては近しいものと言っていいだろう。ゆえに、「がんばる」のタチの悪さは、「真面目」のタチの悪さに通じる。

日本において、「がんばること」を非難するのが難しいように、「真面目」に難癖をつけるのもやりにくい。「真面目で悪いか!」と言われると、ひるんでしまいそうになるのだが、私は敢えて言いたい。「いや、悪いのだ。真面目は迷惑なのだ」と。

私をご存じの方には周知のことだが、私はどちらかというと「真面目なタイプ」ではない。自分では「不真面目な人間」であるとも思ってはいないのだが、時にそう呼ばれることもある。だが、それはまあ、どちらでもかまわない。

問題なのは、そういう「不真面目な人間」を評する場合に、「真面目になれない人間」とする見方である。まあ「不真面目」という言葉自体がそうなのだが、「本来、真面目であるべき、あるいは真面目になりたいのに、そこに至らない人間」という消極的な見方である。「言うまでもなく真面目であるのが望ましいのだけれど、人間というのは完璧ではないから、多少不真面目であっても許容してあげるよ」みたいな捉え方である。私はそこに異議を唱えたい。

結論から言うと、「不真面目であってもよい」のではなく、「すべからく不真面目であるべき」なのだ。逆に言えば、「真面目であってはならない」のだ。

なんてことを言うと、「何を言ってるの?ふざけてるの?」と言われそうだが、そう、真面目にふざけているのである。

今、敢えて「不真面目であるべき」と書いた。問題の核心は、この「べき」的思考にある。「真面目」の問題点は、この「べき」に集約できる。「交通ルールは守るべきだ」「学生は勉強するべきだ」「男は○○であるべきだ」「日本人は△△であるべきだ」と、とにかく「べき」「べき」とやたらとうるさい。まあ、自分で勝手に思ってるだけならいいんだけど、この「べき」思考は、他人を放っておいてはくれない。全ての学生、全ての男、全ての日本人に、そうあるべきことを要求する。何せ「べき」なんだから。

要するに、「真面目」というのは原理主義なのである。絶対主義なのである。そこには原則からの逸脱は想定されない。まあ、十歩譲っても「逸脱の許容」なのであって、多様性の肯定ではあり得ない。「人それぞれだからね」「いろんな人がいるからね」とか言ったりしても、「真面目な人間」は本当はそう思ってはいない。「本当は間違ってるけどね」と思っている。

そうなのだ。「真面目な人間」には、常に正解があるのだ。そして、その正解は1つなのだ。そう「あるべき」正解でないものは、全て不正解、間違いなのだ。ゆえに、その「あるべき」正解は「真理」であり「正義」なのであって、その意味で、そのメンタリティーは宗教に似ている。

この思考は、実はかなり恐ろしい。

たとえば、わかりやすい例として、戦中の日本人の心理構造がそうである。一部のエリート層を除いて、大多数の日本人には悪気はなかったと思われる。悪気なしに大東亜共栄圏や聖戦の遂行を正義と信じ、悪気なしにそれに従わない「シュギシャ」や厭戦家を「けしからぬもの」、「悪」として排除しようとしたのだろう。その意味で、昨今の「日本スゴイ」論者が唱えるように、世界に冠たる真面目民族だったのだと思う。

ほら、「真面目」とは、かくも左様に恐ろしいのである。悪気がないだけに本当にタチが悪いのである。

だから、私は言いたい。悪いことをするなら、せめて悪気を持とうよ。うしろめたさを持とうよ。それが真の誠実さというものではないか?

だが、「真面目人間」にはそれができない。なぜなら、自分が「正しくないかもしれない」「悪かもしれない」「間違っているかもしれない」という可能性を金輪際考えたことがないから。

その点で不真面目な人間には救いがある。間違っても「自分は絶対的に正しい」などと考えないから。そこに一日の長がある。

その「ゆるさ」「いいかげんさ」は、いわば車のハンドルの「遊び」である。大げさに言えば、思考の相対化であり、多様性の認識に繋がる何ものかである。

ただ、欲を言えば、この「不真面目」が「真面目」からの逸脱であるだけではちょっと弱い。より積極的に、より自覚的に「真面目」へのアンチテーゼであるべきなのだが、それを「あるべき」と言った瞬間に、再び「不真面目」が真面目化してしまうという自家撞着に陥る危険性がある。

だから、いつまでたっても「不真面目」は「真面目」の劣位規定として存在せざるを得ないという憂き目に遭い続ける宿命にあるわけだが、まあ、そんなことは大した問題ではない。

私は声を大にして宣言する。「不真面目」な者たちよ、寝ぼけまなこをこすりながら目覚めよ。のらりくらりと立ち上がれ。諸君の「不真面目」さこそが、真面目思考の硬直した不自由さを穿ち、我々を、そして自らを解放する武器なのだ!

なんかわけのわからんことになってきたので、つづく。

「つづく」とか言ってて、どうももう「つづき」がないみたい。

飽きちゃったのかな?

それとも、これぞ「不真面目さ」の体現なのか?

まさかね。